第678回 21年ぶりのアルゼンチン戦(5) メキシコで優勝するアルゼンチンに完勝

■1980年代半ばに絶頂を迎えたフランスサッカー

 1978年のワールドカップ・アルゼンチン大会で1966年の欧州選手権以来の国際舞台に復活したフランスは、開催国のアルゼンチン、多くのアルゼンチンへの移民を抱え、準ホームとして戦ったイタリアという強豪チームと同じグループで1次リーグ敗退を喫したが、その戦いぶりは高く評価された。特に若きミッシェル・プラティニの存在は驚きを与えた。
 そのフランスは1980年の欧州選手権こそ本大会出場を逃すが、1980年代に入って1982年ワールドカップ4位、1984年欧州選手権優勝、1986年ワールドカップ3位と見事な成績を残す。その黄金の1980年代半ばのフランスサッカーを支えたのが先述のプラティニ以降の世代なのである。1986年ワールドカップの予選はユーゴスラビア、東ドイツ、ハンガリー、ルクセンブルグというライバルと争い、ようやく1985年11月に行われた最終戦で勝利してメキシコ行きのチケットを手に入れている。

■予選突破から本大会まで2試合しか試合を行わなかったアンリ・ミッシェル監督

 予選での調子はともかく、優勝候補と目されたフランスであるが、予選突破から本大会まで2回しか試合をしなかった。国際試合のスケジュールも現在ほどは過密ではなく、その前の1982年のスペイン大会の時もまた予選最終戦で本大会出場を決めたが、年が明けてからは月1試合のペースで5試合の親善試合をしている。このあたりは当時のアンリ・ミッシェル監督の方針であろう。2002年ワールドカップの際にアフリカ代表となったチュニジアを率いていたのがミッシェル監督であったが親善試合の機会が少なく、情報収集に手間取ったことを日本の皆様ならばよくご存知であろう。
 そのミッシェル監督は2月26日にパリで北アイルランド戦、3月26日に同じくパリでアルゼンチン戦を準備した。北アイルランド戦は多くのファンに失望を与えた。まず、パルク・デ・プランスのピッチが凍結し、満足なコンディションでなかったこと、そして肝心の試合がスコアレスドローに終わったことである。唯一の希望は後にフランスのサッカーを支えたジャン・ピエール・パパンが代表にデビューしたことである。当時パパンはベルギーのブルージュに所属し、今でも珍しいことであるが代表デビュー時の所属チームが国外のクラブであった。代表デビュー時に国外クラブに所属する選手第1号であった。そしてその1月後にはアルゼンチンが遠征してきた。中南米でのワールドカップ前に南米の強豪が欧州に遠征してくるのはアルゼンチンもフランスの実力を認めている証拠であろう。フランスにとってはアルゼンチン戦がワールドカップ前の最後の試合であり、ワールドカップでの第1戦まで2月以上の間隔が開くのである。

■プラティニ、パパンを欠くフランスがマラドーナのアルゼンチンに完勝

 当時のアルゼンチンのメンバーはダニエル・パサレラなどのベテランに加え、ホルヘ・ブルチャガ、ホルヘ・バルダーノなどが名を連ねているが、なんと言っても目玉はディエゴ・マラドーナであろう。すでにバルセロナを経由し、ナポリに所属していたマラドーナは欧州サッカーでも注目を集めていた。そのマラドーナを迎え撃つフランスであるが、背番号10のプラティニは負傷で戦列を離れ、マラドーナよりも1歳若く代表にデビューしたばかりのパパン、さらにはアラン・ジレスも負傷で欠場し、攻撃陣で注目を集める選手が大量に不在となった。マラドーナを押さえる守備陣はスイーパーシステムを採用し、ウィリアム・アヤシュ、パトリック・バティストンが中央を守ることになった。
 このような不利な条件もありながら、メキシコでのワールドカップ前最後の試合ということもあり、多くの観衆が集まった。プラティニに代わって若いフィリップ・ベルクルイスがゲームメーカーを務めた。試合は15分にダニエル・ゼレ、ルイス・フェルナンデスとつないだボールをジャン・マルク・フェレリがヘッドで押し込んで先制、後半はアルゼンチンの選手が退場になり、終盤にベルクルイスが追加点を上げてフランスは2-0と勝利した。

■代表チームでは実現しなかったプラティニとマラドーナの対決

 アルゼンチンが優勝した本大会では第674回の本連載で紹介したとおり、両国の対戦は実現せず、当時はまだ少なかったイタリアリーグの外国人選手同士として何度も戦ったプラティニとマラドーナは、代表チームでは結局対戦の機会がなかった。優勝できなかったとはいえ、フランスは見事な戦いをメキシコで見せるが、このアルゼンチン戦の次の欧州内での勝利は翌年4月の欧州選手権予選のアイスランド戦まで1年以上待たなくてはならなかった。フランスは再び長いトンネルに入ることになるのである。(続く)

このページのTOPへ