第839回 今ここで考えるフランス・サッカーの危機(1) 政治的な色彩がなかったフランスのサッカー場
■競技面、ビジネス面で課題を抱えるフランスのサッカー
前回までの本連載ではリーグカップの決勝の際に掲げられた横断幕が社会問題にまで発展したことを引き起こしたことを紹介したが、ここで昨今のフランス・サッカーが直面する課題を整理したい。
これまでの本連載では欧州カップでのフランス勢の早期敗退、フランス代表戦における観客動員の低迷というフランス・サッカーの競技面、ビジネス面での問題についてはしばしば紹介してきた。
そしてサッカーのライバルであるラグビーは競技面においては代表のレベルならびにクラブのレベルで輝かしい成果を収めるとともに、ビジネス面においても、スタッド・ド・フランスを満員の観衆を集客するなど、競技面、ビジネス面において近年目覚しい成果を残してきたことを紹介してきた。
今回からは競技面、ビジネス面に加えて、フランス社会においてサッカーが新たな問題を引き起こしてきたことを紹介したい。
■1970年代以降にサッカーが抱えた課題
1970年代から1980年代、世界のサッカーは重大な局面に直面していた。まず、1970年代には欧州チャンピオンと南米チャンピオンが対戦するインターコンチネンタルカップが、両チーム、特に南米側のチームの過熱により、安全な環境で試合を行うことができず、中止にいたった。そして1980年代になるとイングランドなどが暴徒化し、1985年5月にベルギーのブリュッセルのヘイゼル競技場で行われた欧州チャンピオンズカップ決勝ではリバプール(イングランド)とユベントス(イタリア)のファンが衝突し、39人が死亡、400人が負傷するという「ヘイゼルの悲劇」が起こった。それ以外にも1989年のヒルズボロの悲劇などの事件も経験してきた。
これらは、競技場と言う特殊な空間の中で、ひいきチームを応援するファンの応援するチームに対する過度の意識、相手チームに対する極端な対抗心から来るものであった。そして、これらの競技場が古い建造物であったこともその被害を拡大する要因となった。
ところが、1980年代の後半からこれらのフーリガンは政治的な色彩を帯びるようになってきた。高い失業率に悩むイングランドやドイツの若者が極右へと走り、極右団体はサッカーのサポーターのクラブと結びつき、彼らがサッカー場を舞台としてデモンストレーションを行うようになってきたのである。このようにしてサッカー場は危険人物が集まって、政治的プロパガンダの場となったのである。
■相手チームのファンや警察権力との衝突にとどまったフランスのサッカー場
しかし、この傾向はイングランドやドイツ、オランダといったいわゆるアングロサクソン系の国だけにとどまり、フランスのサッカー場は敵チームに対する対抗心が傷害事件に発展することがしばしばあった程度である。
また、フランスのサッカー場では警察権力に対する反感を持った若者が暴れることがあり、1990年ころから若者と警察がサッカー場の内部で衝突を起こし、1993年にはパルク・デ・プランスに監視カメラが設置された。
■フランスのサッカー場に極右団体が入り込んでこなかった理由
このようにフランスのサッカー場も決して安全とは言えなかったが、救いは政治的なバックグラウンドを持つ集団が入り込んでこなかったことである。この理由はフランスにおける極右の代表であるジャン・マリ・ルペン国民戦線党首がサッカー嫌いであったことに起因している。ルペンはフランス人によるフランス人のための政治を標榜し、移民排斥運動を推進し、1980年代にはイタリア移民の指定であるミッシェル・プラティニを攻撃し、1998年のワールドカップ時にはフランス代表は移民が多く、フランス代表とは呼べないとアンチ・サッカーキャンペーンを行った。したがって、彼らがサッカー場の中でキャンペーンを行うことはなかった。
そして、この国民戦線のルペンが敗れ去ったのは1998年7月12日、多様な出自の移民集団であり、選手時代に攻撃にさらされたプラティニが指揮を取るフランス代表がブラジルを破り、ワールドカップで優勝した瞬間であった。しかし、このルペンの敗退とともに、皮肉なことにフランスのサッカー場に人種差別や極右思想の持ち主が入り込んできたのである。(続く)