第902回 天王山を終えてチュニジアと親善試合(2) アルジェリア同様、フランスに侵略されたチュニジア

■3つの課題をクリアしたフランスイレブン

 前回の本連載ではドローに終わったルーマニア戦の3日後に本拠地スタッド・ド・フランスにチュニジアを迎えて親善試合を行い、フランスが先制を許しながらも3‐1と快勝したことを紹介した。その中で指摘したようにこの試合は中央の守備の修正、若手選手の可能性の見極め、レイモン・ドメネク監督の去就という3点が注目の的であった。
 まず、第1の守備の修正についてはルーマニア戦同様ジャン・アラン・ブームソンとエリック・アビダルを起用し、先制点は中央を破られて失ったが、その後はまずまずで及第点であり、レギュラーのウィリアム・ギャラスが復帰を待つばかりである。
 第2点の若手選手についてはこの試合で右サイドDFにロッド・ファンニがデビューしたが、安定した守備を見せた。また後半に入ってカリム・ベンゼマに代わって出場したフローラン・シナマ・ポンゴルも代表デビュー、ルーマニア戦で試合終了間際に代表デビューを飾ったジミー・ブリアンもこのチュニジア戦では81分に出場し、10分間グラウンドの中で走り回った。若手選手にはチャンスを与えることができたと言えるであろう。
 そしてドメネク監督の去就であるが、チュニジア戦の翌日に理事会が行われ留任が決定している。このように書くとチュニジアという手ごろな相手に対して快勝し、若手も起用し、監督も留任したということでハッピーエンドと思われる読者の方も多いであろうが、大きな問題を起こしてしまったのである。

■試合が中断した2001年10月6日のアルジェリア戦

 実はこの試合を行うに当たって最大の懸案事項はストッパーの出来でも、若手選手の代表デビューでもなく、セキュリティ面で問題なく試合を開催できるかどうかであったのである。本連載の読者の皆さまならばよくご存じのとおり、2001年10月6日にフランスはアルジェリアを迎え、初対決をした。このときの模様は本連載第5回から第12回で詳しく述べているが、相手のアルジェリアはフランスに侵略され、フランスから独立し、多くのアルジェリア系移民がフランス国内、特にパリ周辺に多く住み、彼らの暮らし向きは平均的なフランス人よりも厳しい環境下に置かれ、不満を抱えている。スタッド・ド・フランスの試合には多くのアルジェリア系が押し寄せ、異様な雰囲気の中で試合はキックオフされる。そして76分にアルジェリアのファンがピッチに侵入したのをきっかけに多くの観客がピッチになだれ込み試合は中断してしまった。

■古い歴史を持つチュニジア

 チュニジアの歴史もアルジェリアと共通点は多い。チュニジアはフェニキア人が紀元前9世紀に移り住み、カルタゴを建設し、地中海交易の主として繁栄したという古い歴史を有する。その後、ローマ帝国とのポエニ戦争に敗れ、ローマの属国となり、15世紀にはオスマン帝国の属領となる。このように欧州の文化、イスラム圏の文化を混合した豊かな文化を築き上げてきた。オスマン帝国の弱体化とともにチュニジアは独立色を強め、17世紀からフサイン朝がチュニジアを実質的に統治するが、19世紀後半になって欧州の帝国主義がチュニジアを襲った。チュニジアを治めたのはアルジェリア同様フランスであった。

■普仏戦争以降にチュニジアに侵攻したフランス

 アフリカにおける欧州の列強の勢力争いは1880年ころから第一次世界大戦までの間、激しく繰り広げられた。それまで欧州域内における戦力争いであったが、普仏戦争におけるオットー・ビスマルク率いるプロシアの勝利が欧州列強の目をアフリカに向けさせることになった。フランスは普仏戦争中に第三共和政が樹立する。プロシアに敗れて疲弊したフランスは国威発揚のためにアフリカに植民地を求める。国内にはプロシアに対する復讐を望む声もあったが、ビスマルクにとってもフランスが自国に復讐するのではなく、アフリカに目を向けるほうが好都合であった。同じく、英国もアフリカに植民地を求める。英国は北のエジプトと南の南アフリカをむずぶ大陸縦断政策、そしてフランスは西のモロッコ、アルジェリアを手中にしており、ここを起点にインド洋を目指すという大陸横断政策ということでをとった。
 モロッコ、アルジェリアとくれば次はチュニジアである。1881年にフランスはチュニジアに侵攻する。1881年にバルドー条約を結び、チュニジアの外交と財政を勢力下に入れ、1883年にはマルサ協定を締結し、チュニジアはフランスの保護領となる。オスマン帝国は弱体化しており、フランスがチュニジアを手に入れるのは難しいことではなかったのである。(続く)

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