第938回 アルゼンチンに完敗(2) 20年の月日を越えてマルセイユに来たディエゴ・マラドーナ

■マルセイユでフランス代表から主役の座を奪ったアルゼンチン代表監督

 メンバー選考の段階でファンから非難の声が上がったフランス代表のレイモン・ドメネク監督であるが、この試合の主役はアルゼンチンの代表監督であったと言っても過言ではない。アルゼンチンの代表監督はディエゴ・マラドーナ、サッカーファンであれば誰もが知るスーパースターが昨年自国の代表監督に就任した。前回の本連載では、フランス代表に対する世の中の評価が2年前と大きく変わったことを紹介したが、2年前との変化の中で最大のものはフランス代表の状態ではなく、アルゼンチン代表監督であろう、少なくともこの試合会場であるマルセイユにおいては。

■1989年の初夏に起こったマラドーナ移籍騒動

 なぜフランスのサッカーの都と言われるマルセイユでフランス代表そのものよりも他国の代表監督の方が注目を集めるのか。その歴史は20年前の初夏にさかのぼる。マルセイユがリーグ優勝を果たした後の1989年のシーズンオフのことである。国内外では天安門事件(6月4日)、フランス革命200周年(7月14日)、アルシュサミット(7月14日から16日)とさまざまな動きがあり、秋には東欧の自由化が起こることになるわけだが、フランスのサッカー界はこの夏は大揺れだった。それがマラドーナのマルセイユへの移籍問題だったのである。
 マラドーナについては改めて紹介するまでもないが、1960年生まれで、アルヘンティノス・ジュニアーズ、ボカ・ジュニアアーズを経て、1982年にスペインのバルセロナへ移籍している。しかしこの名門チームでは不遇であり、1984年にイタリアのナポリに移籍する。このナポリでの生活が今振り返ってみればマラドーナの全盛期であった。2度のリーグ優勝に導くとともに、1989年にはUEFAカップも獲得している。当時はチャンピオンズリーグの前身のチャンピオンズカップには1国1チームしか出場ができず、1国から複数チームが出場できるUEFAカップのレベルは非常に高く、UEFAカップ優勝に導いたマラドーナは「ナポリの王」という称号を得た。
 そのナポリの王に対して触手を伸ばしたのがマルセイユのベルナール・タピ会長である。2部落ちしていた名門マルセイユを巨額の資金によって立て直すばかりかリーグ優勝まで導いたタピにとって、残るタイトルはフランスのチームがそれまでに遂げたことのない欧州制覇であった。欧州制覇のための最大のライバルはオランダ3人衆(ルート・フリット、マルコ・ファンバステン、フランク・ライカールト)をそろえたACミランである。マルセイユもジャン・ピエール・パパン、クリス・ワドルなどのメンバーをそろえていたが、マラドーナを獲得して欧州制覇を遂げたいタピは6000万フラン(15億円)を準備する。現在の移籍市場から見れば驚くに値しない金額であるが、当時としては破格の金額だったのである。

■実現しなかったマラドーナのマルセイユ移籍

 そしてそのマラドーナのマルセイユ移籍をめぐって6月から7月にかけてフランスだけではなく欧州中が大騒ぎとなる。おそらく一選手の移籍をめぐってこれだけの長期間世間を騒がせたことは今日に至るまでないであろう。タピのマラドーナへの熱烈な思い、ナポリ市民のマラドーナに対する尊敬と感謝の声、そしてマラドーナとナポリの会長のコラード・フェルライーノ会長との確執などが連日取りざたされた。結局、マラドーナのマルセイユ移籍は実現せず、マラドーナはナポリにとどまることになる。
 その翌年のイタリアでのワールドカップは準優勝したが、準決勝はナポリで地元イタリアと対戦した。この試合はPK戦でアルゼンチンが勝利してしまい、ナポリのファンとマラドーナの関係が悪化し、マラドーナ転落のきっかけとなった。その後のマラドーナは薬物使用などトラブル続きであり、本稿ではあえて紹介しない。

■20年の月日を経て、告白したマラドーナ

 このマルセイユでの試合を控え、マラドーナは「実はマルセイユに移籍する目前であった」と告白する。移籍騒動時はマラドーナがマルセイユ行きを望んでいるというのは憶測の域を超えなかったが、20年経ってマラドーナは告白したのである。
 歴史とスポーツに「たられば」葉禁句であるが、もしマラドーナがマルセイユに移籍していれば、マルセイユはチャンピオンズカップを制覇していたであろう、そしてマラドーナはトラブルまみれの人生にはならなかったであろう。
 そのマラドーナがマルセイユに20年の年月を経てやってきたのである。(続く)

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