第1579回 タヒチ、コンフェデレーションズカップに出場(3) パスカル・バイルアとマラマ・バイルア
一昨年3月11日の東日本大震災で被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、東北地方だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。
■タヒチからオセールに渡ったパスカル・バイルア
前回はタヒチがFIFAとオセアニアサッカー連盟に加盟し、FIFA主催の大会であるワールドカップやコンフェデレーションズカップへの道が開かれたことを紹介したが、このタヒチ出身でフランス本土に渡り、フランス本土のクラブに所属し、タヒチ代表ではなくフランス代表の道を選んだ選手がいる。
それがパスカル・バイルアである。1966年にパペーテで生まれ、サッカー選手だった叔父の手ほどきを受け、タヒチでサッカーをプレーし、16歳の時に本土に渡りオセールの下部組織に所属する。1980年代に1部に昇格したオセールは充実した育成組織を持ち、左ウイングのパスカル・バイルアもその期待に応えて成長する。育成組織では将来右のウイングとしてともにフランス代表入りするクリストフ・コカールとチームメイトとなった。オセールには13シーズンの長きにわたって在籍し、ギ・ルー率いる黄金時代の左サイドになくてはならない存在となった。
■パパン・カントナの2トップ時代に左ウイングとして活躍
1990年のワールドカップ・イタリア大会の予選で敗退したフランス代表は、新チームを結成し、1990年初めに中東遠征を行った。その際にパスカル・バイルアは代表に初招集され、クウェート戦で代表にデビューし、続く東ドイツ戦にも出場する。当時のフランスの攻撃陣はジャン・ピエール・パパンとエリック・カントナの2トップで構成されていたが、ウイングプレーヤーのパスカル・バイルアも試合出場を重ね、1992年に行われた欧州選手権のメンバーに選出される。スウェーデンでの本大会ではグループリーグの2試合に出場する。その後も1994年のワールドカップ米国大会予選のメンバーとなるが、最後に連敗したイスラエル戦、ブルガリア戦では起用されなかった。翌年の3月にリヨンで行われたチリとの親善試合が最後の代表の試合となった。
パパン・カントナの全盛期にフランス代表に入り、22試合に出場したというのは非凡なスピードのおかげであると言えよう。ちなみに右ウイング引退後は自らを育て、活躍の場となったオセールにある総合型スポーツクラブのスタッド・オセロワで育成担当となっている。
■パスカル・バイルアのいとこのマラマ・バイルア
そして、パスカル・バイルアにサッカーを手ほどきしたベルナール・バイルアの子供、すなわちパスカル・バイルアのいとこが今回コンフェデレーションズカップに出場したマラマ・バイルアである。マラマ・バイルアもパスカル・バイルア同様にタヒチで生まれ育つ。17歳の時、タヒチを離れ、ナントの育成期間入りし、翌年にプロとなって1部リーグにデビューする。現在は2部に甘んじているカナリア軍団ナントが最後の輝きを放っていた時にマラマ・バイルアはその一員となった。1998-99シーズンと1999-2000シーズンにはフランスカップを連覇し、2000-01シーズンにはサンテチエンヌ戦で決勝ゴールを決め、ナントのリーグ優勝に貢献した。
■1部のクラブで活躍、フル代表には届かず
これらの活躍が当時のアンダーエイジのフランス代表の監督を務めていたレイモン・ドメネクの目に留まり、23歳以下のフランス代表の試合にも出場した。ナントからニース、ロリアン、ナンシー、モナコを経て昨季はギリシャ1部リーグのパントラキコスでプレーしている。スピード感あるプレーはまさにいとこのパスカル・バイルアを彷彿させる。「タヒチゴール」というニックネームでゴールを量産し続けたが、ドメネクがフル代表の監督となってもフル代表に招集されることはなく、1部リーグでの出場数は300試合以上になるが、クラブレベルの好選手という位置づけに甘んじていたのである。
そのマラマ・バイルアも30歳を過ぎ、2部のモナコ、ギリシャリーグのパントラキコスという欧州とは縁のないクラブでのプレーが続いていたが、思いもかけないオファーがかかった。それが今回のコンフェデレーションズカップへの招集だったのである。(続く)