第1813回 2015年アフリカ選手権 (7) アフリカにデビューしたフランス人監督たち
このたびパリ並びにパリ近郊で起こった銃撃事件の犠牲者の方々のご冥福を祈るとともに、サッカー界での人種差別についてしばしば取り上げている本連載に対する読者の皆様からのご支援に感謝いたします。
■ボルドーの名手アラン・ジレスも国内クラブでは苦戦
今回のアフリカ選手権は16チーム中13チームが外国人監督、そのうち6人はフランス人監督である。前回の本連載では20世紀からアフリカの地に渡り活躍してきたコンゴ共和国のクロード・ルロワ、コートジボワールのエルベ・ルナール、マリのヘンリク・カスペルチャックを紹介したが、今回はアフリカに渡ったのが比較的最近のアルジェリアのクリスチャン・グルクフ、ギニアのミッシェル・デュスイエ、セネガルのアラン・ジレスの3人を紹介しよう。
ジレスは1970年代から80年代にかけての名選手である。ボルドーの一員として1985年に訪日したことから日本のファンの皆様もよくご存じであろう。身長162センチと小柄ながらフランスの中盤をミッシェル・プラティニ、ジャン・ティガナらとともに支えた。引退後はボルドーのスポーツディレクターを務めていたが、1995年にトゥールーズの監督に就任、その間、1998年にはパリサンジェルマンの監督になったが、2部のトゥールーズを1部に復帰させたくらいが実績で現役時代の華々しい実績からは期待を裏切るような成績であった。
■モロッコのクラブ、マリの監督で実績を残し、セネガル代表監督に就任
2000年にトゥールーズの監督を辞したジレスはアフリカの地に活躍の場を求める。2001年にモロッコのFARラバトの監督に就任、ここで監督ジレスの人生が変わる。モロッコカップで優勝し、代表監督の話もあったが、2004年にグルジアの監督に就任、初めて代表監督となる。そして2006年からは再びアフリカに渡り、ガボンの監督になる。4年間のガボンの監督時代にめきめきと力をつけ、ガボンの世界ランキングを120位台から40位までラックアップさせる。任期最後にはモロッコを破って2010年のアフリカ選手権に出場する。
2010年にはボルドーでの僚友ティガナの故郷マリの監督となる。2012年のアフリカ選手権では3位となり、アフリカの代表監督として名声を高める。2013年にはセネガルの監督となったのである。
■ギニアで長期政権を誇るミッシェル・デュスイエ
今回のアフリカ選手権の監督を紹介している中で本連載の読者の方はアンリ・ミッシェルの名を探されるだろう。ミッシェルは2012年にケニアの監督を辞してからは監督の座についていない。しかし、ミッシェルもアフリカの地に弟子を残した。それがギニアのデュスイエである。カンヌのGKとして長く活躍、1996年に引退後もカンヌに残る。しかし、2002年、ギニアの監督となる。2年間の最後、2004年のアフリカ選手権では準々決勝に進出する。2006年にはミッシェルのアシスタントとしてコートジボワール代表のスタッフとなる。そして2008年にはベナンの監督、2010年にギニアの監督となり、アフリカの監督としては異例の5年間もその座を維持している。
■ブルターニュの地方区からアフリカに渡ったアルジェリアのクリスチャン・グルクフ
最後に紹介するのが、アルジェリアのグルクフである。この名字を見て本連載の読者の方であれば、フランス代表歴もあり、現在リヨンに所属しているヨアン・グルクフを思い出すであろう。実はこのヨアン・グルクフの父親こそ、このクリスチャン・グルクフなのである。グルクフはブルターニュ出身で現役時代はブルターニュ地方のレンヌ、ロリアンなどでプレー、晩年はロリアンやルマンでプレーイングマネジャーとして選手と監督を兼任した。引退後は長らくロリアンの監督を務め、現役時代は4部リーグのこともあったロリアンを1部まで昇格させたのはグルクフの選手として、そして監督としての功績であろう。
ブルターニュの地方区のグルクフに転機が訪れたのは昨年夏、本連載第1735回で紹介したハビド・ハリルホジッチの後任としてアルジェリア代表の監督に就任したのである。前任のハリルホジッチはワールドカップで同国初の決勝トーナメント進出を果たし、大きな期待を背負って重圧の中で初めての代表監督となったのである。(続く)