第2142回 追悼、レイモン・コパ (2) スタッド・ド・ランスとレイモン・コパ
6年前の東日本大震災、昨年の平成28年熊本地震などで被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、被災地域だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。
■コンクールで2位になり、アンジェとプロ契約
3月3日に85歳で亡くなったレイモン・コパの黎明期のチャンピオンズカップでの活躍について前回の本連載で紹介したが、今回は一番長く所属したスタッド・ド・ランスにおける活躍を紹介しよう。
コパはベルギー国境に近い町の出身であるが、17歳の時に若手サッカー選手コンクールに出場し、ドリブルとフェイントが評価されて2位となる。コンクールの優勝はジャン・ソーパンであり、ソーパンとコパはコンクールの後で当時2部のアンジェとプロ契約することになる。2人のタレントを獲得したアンジェであるが、コパはチーム内で最多得点をあげたものの、チームは下位に留まった。
■名将アルベール・バトーの目に留まりスタッド・ド・ランス入り
逸材には逸材にふさわしいチームが待っていた。それがスタッド・ド・ランスである。1951年にアンジェはスタッド・ド・ランスと親善試合を行う。ここでスタッド・ド・ランスのアルベール・バトー監督の目に留まった。バトー監督は早速獲得に乗り出すが、他のクラブもコパに触手を伸ばし、移籍金は高騰した。スタッド・ド・ランスの経営陣は高騰した移籍金に難色を示したが、スタッド・ド・ランスのメンバーに加わったアルジェリア遠征でのコパのプレーを見て、それまで多くの有名選手を獲得したアンリ・ジェルマン会長は小切手にサインしたのである。
移籍初年度こそリーグ戦で4位であったが、2年目となる1952-53シーズンにはリーグ優勝を果たす。また、当時行われていたラテンカップ(フランス、イタリア、スペイン、ポルトガルのチャンピオンチームによるトーナメント)でも優勝する。3年目のシーズンは2位となるが、4年目のシーズン、すなわち1954-55シーズンでスタッド・ド・ランスは王座に返り咲く。そしてこの年の優勝は別の意味もあった。それはその翌シーズンからチャンピオンズカップが始まり、コパを擁すスタッド・ド・ランスは記念すべき第1回大会のフランス代表として準優勝を果たしたのである。
■フランス人として初めてバロンドール受賞
そしてこの活躍で優勝チームのレアル・マドリッド(スペイン)に移籍し、スペイン在籍の3シーズンすべてで欧州の頂点に立った。1958年にはフランス人として初めてバロンドールにも選ばれている。バロンドールは1956年に始まったが、1年目と2年目でコパはいずれも3位に入っていた。
レアル・マドリッドでの3年目のチャンピオンズカップ決勝戦の相手はスタッド・ド・ランスであった。古巣相手に勝利したコパであったが、チームは契約延長を望んだものの、コパは母国に帰ることを希望し、1959年にコパはスタッド・ド・ランスのユニフォームを再び着ることになった。
■レアル・マドリッドからスタッド・ド・ランスに復帰
コパの復帰したスタッド・ド・ランスは早速リーグ優勝を果たし、2年後の1961-62シーズンでもリーグで優勝する。
ただし、チャンピオンズカップでは精彩を欠き、1960-61シーズンのチャンピオンズカップでは予備戦ではオランダのチームに連勝したものの、本戦の1回戦ではイングランドのバーンリーと戦い、第1戦のアウエーで0-2と敗れ、第2戦はパリでホームゲームを戦い、勝利したものの、3-2というスコアに終わり、2試合通算得点で敗れている。
1962-63シーズンでも1回戦はオーストリアのオーストリア・ウィーンを下したが、準々決勝でオランダのフェイエノールトに1分1敗で敗れている。これが今日に至るまで名門スタッド・ド・ランスの欧州カップでの最後の試合となっている。
そして続く1964-65シーズン、スタッド・ド・ランスは18チーム中17位となり2部に降格してしまう。当然、コパのところには多くのチームから移籍のオファーが舞い込んだ。しかし、コパはスタッド・ド・ランスを1部に復帰させるために移籍を拒む。2シーズンかけてコパはスタッド・ド・ランスを1部に復帰させる。
しかし、1966-67シーズンで19位となったスタッド・ド・ランスは1年で2部に降格してしまう。コパのラストシーズンは1967-68シーズン、プロ生活を2部で始めたコパは終わるときも2部のチームにいたのである。(続く)