第2326回 追悼、アンリ・ミッシェル(3) 3位に輝いたワールドカップと欧州選手権予選での苦戦
7年前の東日本大震災、一昨年の平成28年熊本地震などで被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、被災地域だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。
■1986年ワールドカップメキシコ大会の予選も首位で突破
華々しいナントでの現役生活の直後に、オリンピックチームの監督となり、1984年のロスアンゼルス大会で優勝を果たしたアンリ・ミッシェルには当然のようにフル代表の席が待っていた。1982年のワールドカップで4位、1984年の欧州選手権で優勝と好成績を残したミッシェル・イダルゴ監督の後を引き継ぐ形で監督の座につき、1986年ワールドカップ予選に臨んだ。フランスはユーゴスラビア、東ドイツ、ブルガリア、ルクセンブルクとともに欧州予選グループ4に入る。1984年に行われた試合はルクセンブルク、ブルガリア、東ドイツに3連勝する。その後、東ドイツと引き分け、アウエーでブルガリアと東ドイツに連敗し、順位を落としたが、ホームで行われたラストのルクセンブルク戦とユーゴスラビア戦に連勝し、ブルガリアを得失点差で抑え、首位で本大会出場を決めた。
■アルゼンチン大会で敗れたイタリアに勝利
そしてメキシコの地での活躍は本連載でもしばしば取り上げてきたが、第1シードとなったフランスはグループリーグではソ連と勝ち点で並び、得失点差で2位となり決勝トーナメントに進出する。決勝トーナメント1回戦でディフェンディングチャンピオンのイタリアと対戦する。ミッシェルにとっては選手時代に初めてワールドカップの本大会で対戦した相手である。アルゼンチンのマルデルプラタでの対戦は逆転負けを喫し、苦い思い出となっている。このイタリアに対し、ミッシェルの背番号10を引き継いだミッシェル・プラティニが先制点をあげ、ヤニック・ストピラの追加点で2-0と勝利する。
■オリンピック決勝の再戦となったブラジル戦を制す
そして続く準々決勝は後世まで語り継がれる試合となった。グアダラハラでのブラジルとの対戦は、ミッシェルにとっては監督就任後最初の大会であるロスアンゼルスオリンピック決勝のカードである。黄金の中盤同士の戦いとなった。ブラジルのカレッカのゴールで先制を許したフランスはプラティニのゴールで追いつく。延長戦になっても決着はつかず、フランスサッカー史上2回目のPK戦となる。スペイン大会での苦い経験のあるフランスであったが、順当に最初の3人が成功させる。ところが4人目のプラティニが枠から外して失敗というまさかの展開。しかし、5人目のルイ・フェルナンデスが成功させて、準決勝に進んだのである。
なお、フランスはロスアンゼルスオリンピックで金メダルを獲得したメンバーのうち、ウィリアム・アヤシュ、ミッシェル・ビバール、ダニエル・ゼレ、アルベール・ルストの4人が2年後のワールドカップのメンバーとなったが、不思議なことに誰もこの試合に出場しなかった。そしてブラジルに関してはオリンピックで銀メダルを取ったメンバーは誰1人としてこのワールドカップのメンバーに入っていなかったのである。そういう点では2試合とも監督という立場でかかわったミッシェルの存在は大きい。
イタリア戦、ブラジル戦の疲労があったのか、準決勝のドイツ戦は精彩を欠いて0-2と敗れてしまうが、3位決定戦ではベルギーを延長戦で下し、当時としては1958年大会に並ぶ最高の成績となる3位に輝いたのである。
■苦戦した1988年欧州選手権予選
ところが、ミッシェルのフランスでの輝かしい記録はここでストップしてしまったのである。ワールドカップで2大会連続で準決勝進出、そしてその中間年の欧州選手権で優勝という1980年代半ばの栄光は1988年の欧州選手権予選で終焉を告げる。
初戦は1986年9月10日のアウエーのアイスランド戦、この試合でスコアレスドローで勝ち点を1しか獲得できなかった。第2戦は10月11日のパルク・デ・プランスでのソ連戦であった。プラティニもメンバーに名を連ね、必勝態勢で臨んだが、後半に2点を奪われて敗れてしまう。11月には東ドイツとアウエーで対戦したが、この試合もスコアレスドローとなる。ワールドカップ3位に輝いた直後の欧州選手権予選では3試合で勝ち点2、得点なし、順位は5チーム中4位という長いトンネルに入ってしまったのである。(続く)