第2327回 追悼、アンリ・ミッシェル(4) 1988年欧州選手権予選敗退、1990年ワールドカップ予選でキプロスと引き分け
7年前の東日本大震災、一昨年の平成28年熊本地震などで被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、被災地域だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。
■予選唯一の勝利の試合はミッシェル・プラティニ代表最後の試合
1986年の秋から始まった欧州選手権予選、フランスは3試合勝ちのないまま1987年を迎えた。1987年最初の試合でようやくフランスは初勝利をあげた。4月29日のパルク・デ・プランスでのアイスランド戦、カルメロ・ミチッチェとヤニック・ストピラのゴールで勝利し、ソ連に次ぐ2位に順位をあげた。この試合はミッシェル・プラティニのフランス代表として最後の試合となったが、パルク・デ・プランスに集まった観衆はわずか2万7000人、10月のソ連戦の4万人と比べて寂しいスタンドとなったが、ファンの関心が低下したことを物語っているであろう。そしてこの試合がプラティニにとって最後の試合となっただけではなく、監督であるアンリ・ミッシェルにとってこの予選での最後の勝利となったのである。
■ジョゼ・トゥーレの先制点もむなしく、8年ぶりの予選落ち
6月16日のアウエーのノルウェー戦では終盤に2点を奪われ、0-2と敗れ、シーズンが変わって9月9日には首位のソ連とアウエーで対戦する。今年のワールドカップのメイン会場となるモスクワのルジニキ競技場での試合、ウィリアム・アヤシュとジョゼ・トゥーレというロスアンゼルスの金メダリスト2人が先発メンバーに名を連ねる。トゥーレが恩師の期待に応えて先制点をあげるが、ソ連は終盤に交代出場したアレクセイ・ミハイリチェンコが同点ゴールを決める。フランスは残り2試合で首位ソ連との勝ち点5(当時は勝利の場合勝ち点2)となり、欧州選手権予選敗退が決まったのである。ワールドカップ、欧州戦選手権での予選敗退は1980年欧州選手権以来のことであり、フランスにとっては屈辱的な結果となった。
そしてこの敗退は尾を引いた。フランスは残るホームのノルウェー戦は引き分け、東ドイツ戦は敗戦、結局1勝4分3敗のグループ3位という不本意な成績に終わったのである。
■1990年ワールドカップイタリア大会予選も続投
1987年は欧州選手権以外に夏に西ドイツと親善試合を行い、敗れており、1勝2分3敗という結果に終わったが、ミッシェルは続投し、1990年のワールドカップイタリア大会の予選に臨むこととなった。1988年は秋から開幕する予選に向けて年初から精力的に親善試合を行った。1月にはアウエーでイスラエルと1-1で引き分けたが、2月にはホームでスイスとモロッコに勝利、3月にもホームでスペインに勝利し、4月にはアウエーで北アイルランドと引き分けた。チームは立ち直ったかに見えたが、夏からまた調子を落とす。8月にはチェコスロバキアとホームで引き分け、予選開幕直前には異例ともいえるクラブチームとの試合を行う。イングランドのアーセナルとの試合でフランスは0-2と敗れてしまう。
■エリック・カントナとの確執、欧州最弱のキプロスと引き分け
フランスは9月28日にワールドカップ予選の初戦を迎えた。パルク・デ・プランスにノルウェーを迎えた一戦はCFにジャン・ピエール・パパン、左右にダニエル・ブラボーとダニエル・ゼレを配し、終盤まで無得点が続いたが、84分にブラボーに対するファウルでPKを獲得し、パパンが決勝点をあげ、勝利する。勝利したものの、同じグループ5にはユーゴスラビア、スコットランドという強敵がおり、ファンは不安感を払拭できずに勝利を祝った。そしてこの試合で事件が起こる。メンバーから外されたエリック・カントナがミッシェルへの不満を表明、これに対してミッシェルはカントナを代表チームから追放することになった。
第2戦はアウエーのキプロス戦、当時の欧州の中で最も力が落ちると目されていたチームである。アウエーでカントナが不在とはいえ、勝利できると誰しもが思っていたニコシアでの試合、フランスは試合を圧倒する。ようやくフランスが先制点をあげたのは44分のゼレのゴール、しかし、78分にフランスはPKを与え、同点に追いつかれる。フランスはまさかのドローに終わってしまったのである。(続く)