第2328回 追悼、アンリ・ミッシェル(5) 唯一の予選中の代表監督解任
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■サッカー連盟会長から解任を言い渡される
エリック・カントナとの確執があったものの、ワールドカップ予選で欧州最弱と目されていたキプロスと引き分けてしまったフランス、代表監督のアンリ・ミッシェルには厳しい目が注がれた。10月22日からほぼ1週間、フランスは諸聖人祭の休暇に入る。この休暇中にミッシェルは当時のフランスサッカー連盟会長のジャン・フルネ・ファイヤールのブロンにある自宅に呼び出される。そこでフルネ・ファイヤール会長はミッシェルに監督解任を申し渡す。ミッシェルは受け入れたが、長いフランス代表の歴史の中で、ワールドカップや欧州選手権の本予選の終了時以外の監督交代はこれが最初で最後である。歴史的にも極めて異例なことである。
前回の本連載をお読みになった読者はミッシェル監督は指揮官としていい成績を残せなかったと感じられるかもしれないが、4年間の在任中の成績は17勝11分8敗と歴代の監督の平均よりは良い成績を残している。1988年欧州選手権予選の結果に加え、このキプロス戦の引き分けがそれだけショッキングであったということであろう。
なお、ミッシェルの後任はミッシェル・プラティニ、選手として背番号10を引き継いだプラティニは代表監督も引き継いだが、巻き返すことができず、1974年大会以来の予選落ちとなった。
■5年後にワールドカップ予選敗退で辞任したジャン・フルネ・ファイヤール会長
また、歴史に残る解任を断行したフルネ・ファイヤール会長であるが、1992年の欧州選手権はプラティニ率いる代表チームがカントナを呼び戻し、ジャン・ピエール・パパンとの2トップで予選は全勝しながら、スウェーデンの本大会では惨敗、またその欧州選手権の直前にはフランスカップ準決勝でフリアニの悲劇と言われる仮設スタンドが崩壊して多数の死者を出す事件が起こる。さらに年が明けて1993年はマルセイユがチャンピオンズリーグで優勝しながら、国内リーグ戦での八百長疑惑でタイトルを剥奪されてしまう。このような不祥事が続いたが、決定打は1994年ワールドカップ予選である。フランスは勝ち点を着実に重ねていく。残りはホームで2試合となった段階で勝ち点1をあげれば本大会出場となったが、イスラエル、ブルガリアにいずれもアディショナルタイムに決勝点を奪われ2大会連続でワールドカップ予選落ちとなる。この責任を取ってフルネ・ファイヤールも会長の座を辞したのである。5年前にミッシェルを解任したのと同じ11月のことであった。
■実績を残せず1年でパリサンジェルマンの監督を解任
代表監督を解任されたミッシェルは2年のブランクを経てパリサンジェルマンの監督となる。名将トミスラフ・イビッチの後を受けて1990年にパリサンジェルマンの監督になったが、リーグ戦では9位、フランスカップでもベスト16に終わり、ファンの期待に応えるレベルではなく、1年で首都パリを去っている。
■光と影のコントラストがあまりにも強烈なフランスでの監督生活
そしてこれがミッシェルが最後にフランスのチームで指揮を執った経験となったのである。現役引退後オリンピックチームの監督を2年、代表監督を4年、そしてクラブチームの監督を1年、合計7年の監督生活であったが、最初の4年はすべてがうまくいった。第二次世界大戦以降に西欧のチームでオリンピックで優勝したのは1948年ロンドン大会のスウェーデン、1992年バルセロナ大会のスペインと1984年のロスアンゼルスのフランスだけである。そして1986年のワールドカップ3位も当時としては最高の成績であり、なんといってもオリンピック決勝の再戦となったブラジル戦の勝利は永遠にファンの記憶に残る。
しかし、1988年欧州選手権予選の惨敗、さらには1990年ワールドカップ予選中の解任、そしてクラブチームに転じても、前任のイビッチがリーグ2位となりUEFAカップ出場、後任のアルトゥール・ジョルジュがリーグ優勝、フランスカップ優勝、UEFAカップとカップウィナーズカップで準決勝進出と実績を残しており、谷間の監督となった。これほど光と影のコントラストの激しい監督生活を送ったミッシェルは長い第三の人生を送ることになったのである。(続く)