第2652回 追悼、ミッシェル・イダルゴ (10) 控え選手を出場させ、ハンガリー戦に勝利
平成23年の東日本大震災、平成28年熊本地震、平成30年7月豪雨、昨年の台風15号、19号などで被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、被災地域だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。
■若いチームには高い壁だったイタリアとアルゼンチン
イタリア、アルゼンチンという強国に連敗して一次リーグでの敗退が決まったフランス、アルゼンチンには本連載第2647回で紹介した通り前年に訪問してドロー、そしてイタリアには本連載では紹介しなかったが、この年の2月にナポリで親善試合を行い、2-2と引き分けている。この試合ではミッシェル・プラティニのゴールが認められていれば、フランスが勝利していた。フランスがアウエーでイタリアに負けなかったのは1912年(トリノでフランスが4-3と勝利)以来66年ぶりということで、フランスのファンはイタリアにもアルゼンチンにも勝利できるのではないかと期待したが、やはり12年間のブランクは大きく、若いチームにとって一次リーグ突破は難しかった。
■45歳のミッシェル・イダルゴ監督に進言した22歳のミッシェル・プラティニ
そしてフランスの最終戦の相手のハンガリーも同様にアルゼンチン、イタリアに連敗し、フランスとともにアルゼンチンを去ることが決まっている。
このように2敗同士で最終戦を戦う場合、選手の起用方法は2通り考えられる。まずはベストメンバーで戦い、初勝利を目指すというもの、もう一方は今後のことを考えて、若手選手に経験を積ませるというものである。
ミッシェル・イダルゴ監督は連敗した時点で辞任を報じるマスコミもあり、意地を見せたいところであるが、悩む指揮官に声をかけたのが、まだ22歳のミッシェル・プラティニであった。アルゼンチン戦敗戦の翌日にプラティニはイダルゴ監督のところに赴き、「もしも監督が最終戦に私を使いたくないのであれば遠慮なく言ってくれ。22人のメンバーのうち、アルゼンチンで試合に出場していない選手も何人かいる。彼らに経験を積ませてくれ」と進言したのである。
この時点でドミニク・ドロプシー、フランソワ・ブラッキ、クロード・パピ、ジャン・プチは試合に出場していなかった。消化試合とはいえ、プラティニ抜きのワールドカップは考えられないが、イダルゴ監督は自分が代表監督としてデビューした同じ日に代表選手にデビューした若者の意見に押され、先発メンバーからプラティニを外し、ドロプシー、ブラッキ、パピ、プチの名前をメンバー表に書き込んだのである。
■控えの4人がワールドカップ初出場
この試合はマルデルプラタで行われたが、試合前になって両チームがユニフォームに着替えて練習をしている時に同じ白のユニフォームを着ていたことから、フランスが地元クラブのユニフォームを借りて試合に臨んだというエピソードで知られる試合である。
緑と白の縦じまのユニフォームのフランスはGKのドロプシーが代表デビューとなる。ワールドカップ本大会が代表デビュー戦というのは極めて珍しいケースであろう。ドロプシーはその後代表出場を17回まで伸ばしたが、1981年が最後の代表試合となり、この試合が最初で最後のワールドカップ本大会の試合であった。正GKのジャン・ポール・ベルトラン・ドマンは負傷退場したアルゼンチン戦が最後の代表試合、第2GKのドミニク・バラテリも1982年の春まで代表戦に出場、実は3人のGKはこれが最初で最後のワールドカップとなった。
■ハンガリー相手に初勝利をあげたフランス
DF陣はクリスチャン・ロペスをストッパー、リベロにマリウス・トレゾールを配し、左右にブラッキとジェラール・ジャンビオン、MFはパピ、プチとドミニク・バテネイ、FWはドミニク・ロシュトー、マルク・ベルドル、オリビエ・ルイエという布陣となった。プチはロペスの先制点のアシストをする。また、初先発のベルドルが追加点をあげる。そして攻撃陣で唯一のレギュラーであるロシュトーもゴールをあげる。プラティニ、ディディエ・シスも後半になって交代出場する。フランスはハンガリーに3-1と勝利する。
最終戦でワールドカップデビューとなった4人であるが、ドロプシー同様、次のワールドカップに出場できなかった。パピはイダルゴ監督の下ではこの試合が初めての出場となったが、これが最後の代表での試合となった。
1980年代の栄光を支えたメンバーはイダルゴ監督が代表にデビューさせた若い選手たちだったのである。(続く)