第2658回 追悼、ミッシェル・イダルゴ (16) 最後の国際舞台となる自国開催の欧州選手権

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■代表監督として最後の指揮となった1984年欧州選手権

 ミッシェル・イダルゴ監督にとって最後の国際舞台は1984年の欧州選手権となった。1982年のワールドカップでの躍進、そしてその選手の多くが1986年のワールドカップでも活躍したように世論は1986年のワールドカップまでイダルゴ政権が続くことを望んだが、イダルゴ本人は8年間も代表監督という激務は続けられないことを感じるとともに、後任としてアンリ・ミッシェルが同年に行われたロサンジェルスオリンピックでチームを優勝に導いたことから、1984年の夏に代表監督の座をミッシェルに譲ることとなる。

■1980年大会から大会形式の変わった欧州選手権

 欧州選手権は1960年にフランスで開催された第1回大会と次の1964年の第2回大会はノックアウトシステムで4か国に絞り、4か国のうちの1国に集まって決勝大会を行う形式であった。1968年大会から予選をグループに分けてリーグ戦で行うようになったが、予選グループを勝ち抜いた8チームをホームアンドアウエーで4チームに絞り、同様にそのいずれかの国で準決勝、決勝を行っていた。しかし1980年大会で大会形式が大きく変わり、開催国があらかじめ決められ、予選を勝ち抜いてきた国と開催国が参加するという形式になった。また本大会出場国は8となり、予選では7つのチケットが争われた。本連載でもふれたが、イダルゴ監督にとって2回目の国際大会はこの1980年欧州選手権イタリア大会の予選であったが、フランスはチェコスロバキアに勝ち点で1及ばず、本大会に出場できなかった。

■第1回大会以来の本大会出場となるフランス

 実はフランスは第2回大会から第6回大会まで欧州選手権の本大会に出場したことがなく、自国開催となる第7回大会は2回目の本大会であった。フランスにとっては1960年に続く2回目の本大会の開催であり、第1回大会は準決勝、3位決定戦とも敗れるという屈辱を味わっている。1960年大会はその2年前のワールドカップスウェーデン大会で3位になっており、1984年大会も2年前のワールドカップスペイン大会で4位になるという状況は似ていたが、フランス人ならずとも多くのファンはフランスが優勝するという予想を立てた。そして、その予想通りにフランスは優勝する。グループリーグ3試合は全勝、そして準決勝は延長勝ち、決勝もスペインに勝利し、5戦全勝で優勝を果たす。
 この模様については本連載で何回か紹介してきたので、今回はイダルゴが代表監督を退く花道として、イダルゴが見い出してきた選手たちに着目しよう。

■6人が2回のワールドカップに出場したフランス

 この欧州選手権にエントリーしたメンバーは22人、30代の選手は4人、GKの30歳のフィリップ・ベルジュローとアルベール・ルスト、MFの31歳のアラン・ジレス、同じく31歳のFWのベルナール・ラコンブである。主将を務めるのは28歳のミッシェル・プラティニ、代表最多出場歴を誇るのはプラティニと同年のマキシム・ボッシの55試合である。20試合以上の代表歴を誇るのはボッシ、ディディエ・シス(49試合)、プラティニ(48試合)、ドミニク・ロシュトー(37試合)、ラコンブ(34試合)、パトリック・バティストン(31試合)、ジレス、ジャン・テガナ(28試合)、ベルナール・ジャンニーニ(22試合)、マニュエル・アモロス(21試合)である。6年前の1978年のアルゼンチンワールドカップ、2年前のスペインワールドカップにも出場した選手はバティストン、ボッシ、プラティニ、ラコンブ、シス、ロシュトーと6人に上るのである。二度のワールドカップに出場したメンバーからはジェラール・ジャンビオン、マリウス・トレゾール、クリスチャン・ロペス、ドミニク・バラテリと守備陣が外れたが、キャリアを重ねた20代後半の選手がチームの軸となっていることから、フランスを優勝候補とするのは妥当であろう。(続く)

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