第2659回 追悼、ミッシェル・イダルゴ (17) 就任初戦でデビューさせた3人が8年後に欧州王者に
平成23年の東日本大震災、平成28年熊本地震、平成30年7月豪雨、昨年の台風15号、19号などで被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、被災地域だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。
■ミッシェル・プラティニが9得点をあげ、欧州選手権で優勝
パトリック・バティストン、マキシム・ボッシ、ミッシェル・プラティニ、ベルナール・ラコンブ、ディディエ・シス、ドミニク・ロシュトーと1978年のアルゼンチンワールドカップ、スペインワールドカップを経験した選手を6人も擁するフランスは自国開催となった1984年欧州選手権で優勝する。この優勝の原動力となったのが背番号をつけたプラティニであった。主将も務めたプラティニは5試合すべてで得点をあげ、全部で9得点、大会得点王に輝く。大会全部の15試合で41得点しか生まれていない。さらに得点ランキングの2位は3得点のフランク・アルネセン(デンマーク)、2得点の選手も5人しかいないことを考えれば、プラティニの9得点がいかに卓越したものであるかお分かりであろう。
■背番号10が輝いたマルセイユでの準決勝
プラティニはミッシェル・イダルゴが監督を退いてアンリ・ミッシェルの率いた1986年のメキシコワールドカップでも大活躍したが、この欧州選手権こそ将軍の名にふさわしい大会であった。特にマルセイユで行われた準決勝のポルトガル戦、延長後半の119分の決勝ゴールはその後のフランスサッカーの歴史も変えている。それはこの試合のボールボーイを務めていたマルセイユの小学生、ジネディーヌ・ジダン君が将来フランス代表の背番号10を目指そうと決心したからである。
エースナンバーである背番号10をワールドカップスペイン大会でプラティニにつけさせたイダルゴ監督の判断は20世紀最後のワールドカップでも正しかったのである。
■8年後の欧州王者3人がデビューし、後の代表監督が3人出場した就任初戦
イダルゴの目の正しさはこの8年前の就任初戦にさかのぼる。1976年3月27日、パルク・デ・プランスでのチェコスロバキア戦、ホームゲームでありながら集まった観衆はわずか9,559人、この試合で代表にデビューした6人の選手のうち、ボッシ、プラティニ、シスの3人が8年後の欧州王者に輝いたのである。またこの試合にはプラティニ以外にレイモン・ドメネク、アンリ・ミッシェルも出場しており、後にフランス代表監督となる3人が出場していた。これもまたイダルゴ監督の見る目の確かさを象徴しているであろう。
■国際レベルの人材に泣いたGK
一方、人材に恵まれなかったのがGKである。通常GKは経験がものを言うこと、フィールドプレーヤーに比べれば運動量が少ないことから、長期にわたって同じ選手がポジションを占有するケースが多い。しかし、イダルゴ監督時代前半のフランスは代表GKが固定しなかった。
アンドレ・レイは1978年のワールドカップ直前に負傷して代表から離脱、本大会はそれ以外の選手で戦った。1978年のワールドカップ最終戦で代表にデビューしたドミニク・ドロプシーもスペイン大会予選を戦っている中でメンバーから外れる。
結局1982年のスペイン大会はジャン・リュック・エトリが予選を戦ってきたジャン・カスタネダ、ドミニク・バラテリを押しのけて正GKとなる。エトリはこのワールドカップでは3位決定戦以外の6試合に出場するが、ワールドカップ開幕までに代表戦は2回しか出場したことがなく、さらにワールドカップ終了後は1試合しか出場せず、生涯で代表戦に9試合出場、そのうち6試合はワールドカップ本大会という珍しいキャリアとなった。
なお、エトリはワールドカップの直後に一線級を退いたわけではない。モナコ一筋で1994年まで現役を続け、1部リーグ602試合出場しており、当時の最多出場記録となった。エトリの前に最多出場記録を保持していたのがドロプシーであった。ドロプシーも1989年まで現役を続け、ストラスブール、ボルドーでの1部リーグでの生涯出場試合数は596試合であった。このように国内リーグでは活躍しながら、国際レベルでは若干足りなかったのがこの時代のフランスのGKであった。そこに歴史を変えるGKが生まれたのである。(続く)