第373回 ようこそ、栄光のルマンへ(1) ルマン24時間レースに日本勢が参戦

■フランスの文化、自動車レース

 アテネオリンピックで大活躍した松井大輔が京都パープルサンガからルマンへレンタル移籍したことから、日本の読者の方からたくさんのお便りをいただいた。リクエストにお応えして、今回からこの件をご紹介しよう。
 まず、ルマンという地名をご存知のない方はいらっしゃらないであろう。ルマンといえばモーターレースのルマン24時間レースが行われることで有名であり、このレース抜きにルマンを語ることはできない。
 20世紀の初頭、自動車の普及とともに、ルマンには西部自動車連盟という組織が誕生した。フランス最初の自動車連盟である西部自動車連盟は自動車の発展のためにレースを開催する。1906年に西部自動車連盟はフランスグランプリを開催し、1923年からは24時間レースへと姿を変え、現在に至っている。ルマン市内の一周13.6キロメートルのコースを24時間かけて何周できるかという耐久レースであり、このコースの大部分は公道である。フランスではモータースポーツはサイクルスポーツと並び、球技をしのぐ人気を誇っているが、それはこの国において自動車や自転車というものが、国の基幹産業であり、国民の生活の一部となっており、その延長線上に各種のレースが存在しているからであろう。現在の日本ではテレビゲームの存在がこれに相当するであろう。

■1970年代に日本でも認識されたルマン24時間レース

 このフランスの文化が日本でも認識されたのは1970年代のことであろう。まずはスティーブ・マックイーン主演の米国映画「栄光のルマン」が日本でも1971年に上映された。「Le Mans」という原題のこの映画は米国映画らしく巨額の資金に物を言わせて前年のレースで参加した自動車にカメラを搭載し、迫力のある映像を銀座のスクリーンに映し出したのである。そして、翌々年の1973年には日本のシグマ・オートモーティブが日本勢として初めて参戦する。マツダのエンジンを搭載したマシンであったが、当初はトヨタのエンジンを搭載する予定であったため、トヨタの広告がリアウイングに大きく入っている。日本の護送船団方式政策を象徴していると言えるであろう。

■日本勢参戦の契機となった石油ショック

 そして、この年に起こった石油ショックが結果的にはその後に日本勢が活躍する契機となった。石油ショックによって自動車メーカーにとって最大の課題は燃費対策となった。さらにフランスでは環境問題に対して敏感であったため、レースのレギュレーション(大会規定)に燃費という概念を入れることになったのである。それまでのレギュレーションではレース中は燃料を無制限に使用することができたが、新たなレギュレーションではレース中に使用できる燃料に上限が課せられた。これが当時対米輸出のために燃費競争を行っていた日本の自動車メーカーの関心を引き、各メーカーは燃費競争のデモンストレーションの場としてこのフランス西部の町に目をつけたのである。

■コンスタントに成績を残したマツダのロータリーエンジン

 1980年代後半からは日本経済の活性化、欧州統合に向けた欧州戦略の強化という点で多くの日本メーカーが参戦したが、その中で一歩抜け出したポジションにあったのがマツダであった。マツダは日本勢が初参戦する前である1970年にベルギーのチームにロータリーエンジンを供給しており、1974年にはシグマMCマツダとして参戦する。1980年にはマツダ車は日本車として初めて完走しており、コンスタントに好成績を残すマツダはルマン24時間レースの有力な存在となったのであるが、大きなピンチに立たされたのである。(続く)

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