第374回 ようこそ、栄光のルマンへ(2) マツダ、ラストチャンスで初優勝
■日本メーカーが続々と参戦したルマン24時間レース
ルマン24時間レースへ挑戦した日本メーカーは前回の本連載で紹介したマツダだけではない。トヨタは1975年からエンジンを供給し始め、複数のチームがトヨタのエンジンでルマンを走ることになる。そして1987年にはトヨタ・チーム・トムスとして参戦し、1990年には6位に入る。トヨタのライバルである日産も負けてはいない。日産は1986年に星野一義、鈴木亜久里というF1レーサーを擁して参戦している。また、1980年代にF1に専念したホンダは、その後F1活動を休止した時期にルマンに参戦している。また、ホンダのF1同様に三菱もパリダカールラリーなどに活動の重心をおいてきたが、アパレル関係の関連会社である三菱レイヨンは多くのユニフォームをスタッフに提供している。
■日本勢の中で一歩リードしたマツダ
しかし1980年代の実績はマツダがナンバーワンである。オイルショックでロータリーエンジンが日本国内の市場で受け入れられなくなった段階でロータリーエンジンはその活路を欧州のモータースポーツに求めた。また、国内におけるトヨタ、日産の強力な販売網に太刀打ちできず、販路を国外に求めた。その結果として欧州市場や北米市場における地位を確立することがマツダのサバイバルの策となった。そして欧州におけるその象徴がルマンである。1974年の初参戦以降継続して出場し、1980年に果たした完走(21位)は、日本車として初の偉業であった。その翌年こそ完走を逃したものの、1982年は14位、1983年は13位、1984年は10位と最高順位を上げていく。その後、一時期停滞したものの、1987年には初の一桁順位の7位に入る。3台が参戦した1989年には7位、12位、14位という過去にない最高の成績をフランス革命200周年祝賀ムードの中で残した。
■対日強硬派首相の下でレギュレーションの変更
このようなマツダの躍進は閉鎖的なフランスの自動車業界にとっては決して愉快なものではなかった。当時のフランス産業界、政界は対日貿易摩擦の解消を図るために様々な非関税障壁を設けようと躍起になっていた。日本車の新車の登録は毎年3%に制限され、日本車を購入したいフランス人は日本車の輸入規制のないベルギーやオランダで新車登録した自動車を中古車として購入していた。そして1991年に登場したのが女性首相のエディット・クレッソンである。対日強硬派のクレッソン首相は日本企業に対する様々な障壁を設け、自国産業を保護しようとする。
もちろんモータースポーツも例外ではない。ルマン24時間レースの主催者は1991年を最後にロータリーエンジンの使用を禁止することになったのである。モータースポーツを含むスポーツの世界では、守旧派がレギュレーションを変更し、台頭してきた新興勢力を押さえ込もうとすることがある。この時はその対象が日本のマツダであった。1991年大会は燃料に関する規制もロータリーエンジンには不利な条件の下で開催された。
■ラストチャンスに吹いた神風
しかし、マツダにとっては最後のチャンスである。マツダ陣営はロータリーエンジンで臨む最後の大会に全力を挙げたのである。その陣営の思いが通じたのか、ベルトラン・ガショー、ジョニー・ハーバートというF ドライバーを擁する55号車が3位につける。スタートから14時間経過した時点で2位に浮上、これまでの最高成績が7位であることを考えれば、無理してアタックせずに2位を確保するだけで大記録である。しかし、ここで陣営は攻めに出る。その攻めの姿勢がルマンに神風を吹かせた。残り3時間でトップのメルセデスが突然のピットイン。トップに立ったマツダは順位を譲らず日本車として初優勝を飾る。もちろんロータリーエンジンとして最初で最後の優勝であった。逆風の中での初優勝は自動車レースをこよなく愛するルマンの人々にとっても感慨深いものがあったであろう。そしてその優勝から13年、松井大輔がこの町にやってきたのである。(続く)