第986回 2009年ツール・ド・フランス(3) 日本人選手のパイオニア、キソ・カワムロ
■史上初めて複数名の日本人選手が参加
前回の本連載では注目選手としてスペインのアルベルト・コンタドールと米国のランス・アームストロングの2人を紹介した。早速日本の読者の皆様から、今回出場している日本人選手について紹介してほしいという連絡をいただいた。
今回のツール・ド・フランスに出場している日本人選手は新城幸也と別府史之、96回を迎えるツール・ド・フランスの歴史の中で、複数名の日本人選手が出場するのは初めてのことである。沿道には多くの日本人がつめかけ、声援を送っているが、最終日の7月26日にはシャンゼリゼ通りの特設VIP席は日本人に占拠されるであろう。事実、例年はカリブ海などの豪華リゾート地へバカンスに出かけていたが、ツール・ド・フランスのテレビ中継のあるフランス語圏のカナダのケベックでバカンスを送るというのが、典型的な2009年型のパリ在住日本人セレブの姿であろう。
■1926年と1927年に出場した川室競
日本人の出場は1996年の今中大介以来13年ぶりのことである。今中が出場したときに現地では日本人選手として初出場と報じられたが、実際はその70年も前に日本人選手がツール・ド・フランスに挑戦したのである。それが、川室競(かわむろ・きそう)である。レースに出場するために生まれてきたような名前であるが、その数奇な人生には興味が尽きない。
日本郵船の船長の息子として1892年に横浜で生まれる。したがって、幼少のころより、海外が身近な存在であり、兵役が終わると川崎造船に入社する。そして入社して2年たった1918年、自らが建造に携わった船舶を納品するためフランスのマルセイユに向かう。そしてそのままフランスに住み着いてしまったのである。
海外との距離が今よりずっと遠かった時代であるが、川室はフランス生活に適応する。日本に住んでいたころから、当時ではまだ珍しかった自転車に親しんでいた川室はフランスでも自転車競技に取り組み、1926年と1927年のツール・ド・フランスに出場する。成績は芳しいものではなかったが、昭和になったばかりのこの時代に日本人が外国での単一競技の大会に出場したということは記念すべきことである。
■フランス以外のレースにも出場したエンジニア
また、キソ・カワムラという名前で登録され、長い間、日本人かどうかわからなかったが、初めて日本人であると判明したのは今から20年ほど前のことでしかない。
その川室であるが、欧州ではツール・ド・フランス以外の大会にも出場していたようである。また、当時はプロの自転車選手は存在せず、川室は技術者として飛行機会社、鉄道会社、レストランなどに勤め、1929年にはイタリアを代表する自動車メーカーであるフィアット社に入社し、活動の場をフランスからイタリアへと移す。ドイツ、ポーランドなどのレースにも出場するが、1934年に日本に帰国する。ここでレーサーとしての川室の人生は終止符を打ち、帰国後も川室はエンジニアとしての人生を歩む。
■伝説のバイク「陸王」
川室が太平洋戦争開戦の年に入社したのが陸王内燃機という会社であった。この会社は陸軍が使用するハーレーダビッドソンを輸入していた三共製薬が、戦時に備えて国産のオートバイを製造するために作られた会社である。社名の陸王は陸軍向けのバイクを製造することに加え、当時の社長が慶應義塾大学の卒業生であり、陸の王者に由来する。この陸王のバイクは陸軍が満州の荒野を走ることができるような仕様であった。しかし、平和が訪れ、陸軍向けのバイクの需要はなくなる。多くの軍需向けの輸送産業が戦争後はそのマーケットを変え、復興、そして高度経済成長につなげてきた。陸王も警察向けにターゲットを変えた。しかし、荒野向きの陸王のバイクは道路の上では不評で、その他のバイクメーカーに取って代わられ、陸王はマンモスのように絶滅してしまう。
ヤマハ、カワサキ、ホンダ、スズキという4社が日本市場だけではなく世界の市場、そして世界のバイクのレースを席巻しているが、川室が最後の技術者生活を送った陸王の技術が脈々と流れているはずである。
そして川室の初挑戦から実に83年、2人の日本人がフランスを銀輪で走り回るのである。(続く)