第2361回 ベルギーに勝利、決勝進出(3) ベルギーのアシスタントコーチ、ティエリー・アンリ
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■2年前に就任したロベルト・マルティネス監督が選んだティエリー・アンリ
前回の本連載でフランスとベルギーは手の内を知った同士の対戦であると紹介したが、忘れてはならないのが首脳陣である。ベルギーのコーチにはティエリー・アンリがいる。ベルギーは優勝候補と目された2年前の欧州選手権では準々決勝でウェールズに敗れる。国民的英雄であったマルク・ビルモッツが監督を務めていたが、2年前のワールドカップブラジル大会に次ぐ準々決勝敗退を受けて退任する。ベルギー協会は監督を公募し、イングランドのエバートンを解任されていたスペイン人のロベルト・マルティネスを監督に決定する。
マルティネス新監督がコーチのうちの1人として目を付けたのが、同じイングランドのアーセナルの下部組織の指導をしていたアンリであった。マルティネス監督は未知数である指導者としての能力よりもむしろ解説者としての的確な判断能力に期待し、アンリをアシスタントコーチの1人として入閣させた。
■1998年ワールドカップ、2000年欧州選手権を制したアンリ
選手としてのアンリについて改めて紹介しよう。プロ契約はモナコ、1997年秋、すなわち自国開催のワールドアップの前年の秋に代表にデビューする。本大会では決勝戦以外の6試合に出場、背番号12には金メダルが授与された。世界王者となったアンリはイタリアのユベントスに移籍するが、ポジションに恵まれず、1999年にはイングランドのアーセナルに移籍する。アーセナルの監督のアルセーヌ・ベンゲルはアンリがモナコの下部組織に所属していた当時のトップチームの監督である。アーセナルには2007年まで在籍し、移籍翌年の2000年には欧州選手権で優勝、アーセナルには2007年まで所属し、プレミアリーグで4回の得点王に輝いている。
■予選と本大会で晩節を汚した2010年の南アフリカ大会
2000年の欧州選手権の後は起伏の激しい代表人生となる。2002年のワールドカップ日韓大会では一次リーグ第2戦のウルグアイ戦でレッドカードで退場、一次リーグ敗退の責任者として非難された。2004年の欧州選手権も不調で準々決勝敗退となる。2006年のワールドカップでは3得点を決めて、チームも決勝に進出する。特に準々決勝のブラジル戦でのゴールは値千金であった。しかし、2008年の欧州選手権でもアンリの1得点が唯一の得点という惨敗を喫する。
アンリにとって最後の主要大会が2010年のワールドカップ南アフリカ大会であった。この大会、フランスは予選ではプレーオフに回るが、このプレーオフのアイルランド戦、アンリのハンドが見逃され、フランスは本大会出場を決める。また、本大会ではチームは崩壊状態となる。リーダー層の1人であるアンリを非難する声が大会後に沸き起こり、アンリは世間のブーイングの中で代表から去ったのである。
■フランス代表として歴代最多の51得点、ベルギーの若手にとってもレジェンド
しかし、アンリの積み上げた得点は51点、フランス代表の歴代最多得点である。おそらく当分破られることのない記録であろう。キリアン・ムバッペが得点を積み上げたとしても、アンリの記録を書き換えるのは数年後のことであろう。
マルティネス監督の下にアシスタントコーチは複数いるが、フランスサッカー界のレジェンドであるアンリの存在は大きい。特に若い時期にフランスのマルセイユに所属していたミッチー・バチュアイやプレミアリーグに10代から在籍するロメル・ルカクにとってはまさに神のような存在であり、彼らの成長はアンリなしには考えられないであろう。またアンリは英国でのテレビ解説者の仕事を辞め、ベルギー代表の指導に専念することになった。
そしてアンリが初めてフランス代表のユニフォームを着た時の主将は現在は監督になっているディディエ・デシャンである。デシャン自身もアンリが対戦相手のベンチに座っていることは想像できないと言っている。そのデシャンは監督としてベルギーとは2回対戦、いずれもアンリ就任前の親善試合であるが、ブリュッセルでスコアレスドロー、スタッド・ド・フランスでは3-4と敗れており、まだ勝利したことがない。デシャンはかつてのチームメイトの前で初勝利をあげることができるであろうか。(続く)