第15回 日本代表の三都物語(その3)リヨン

 日本代表は2敗を喫し、残念ながら決勝トーナメント進出を逃してしまった。残るジャマイカ戦で、日本の優れた能力を出し切ってほしいものだ。今回は、日本代表のグループリーグ最後の舞台となる町、リヨンをご紹介しよう。

■絹、印刷、映画・・・すぐれた文化の歴史を持つ町

 前回の本連載にも取り上げたように、フランスの都市には川が必要である。都市の顔つきは川が決めると言っても過言ではない。そういう点で、リヨンはフランスの都市において最も川の影響を受けている都市である。北方のヴォージュ山地に源を発するソーヌ川と東方のアルプス山地から流れてくるローヌ川、この二つの川が南北に流れる町、それがリヨンである。
 ローヌアルプ地方の中心としてフランス第二の人口を誇るこの町の歴史は古い。紀元前43年にローマ人によって建設され、歴代ローマ皇帝の多くが滞在した。アルプス山脈を越えて初めて広がる平野と水利の良さから中世から経済が発展した。中世のリヨンの産業については、絹織物が有名であるが、この時期にフランスで初めて印刷物を出版した都市でもある。絹工業は今なお盛んであるが、あのノストラダムスの予言書を刊行した歴史を持ちながら、他の都市への技術の普及によって出版都市リヨンの色彩は薄くなってしまった。しかし、今から約100年前にリュミエール兄弟が映画を発明したのもこの町である。
 フランスの誇るオレンジの高速鉄道TGVがリヨンの駅に到着すると、ガイドブックに書かれているフルビエールの丘ではなく、近代的な鉛筆型のタワーが目に入る。これはクレディリヨネ・タワー、すなわちフランス第二の銀行であり、ツール・ド・フランスでお馴染みのクレディリヨネ銀行である。イタリア資本の西北への拠点として金融業の中心ともなった。
 内陸部にあるリヨンは横浜の姉妹都市である。横浜はリヨン以外にも7つの姉妹都市を持つが、そのほとんどは港湾都市である。内陸のリヨンが横浜の姉妹都市となっている理由としては、フランス第二の都市というだけではなく、明治期に絹工業で栄えたこと、そして東京銀行の前身の横浜正金銀行がリヨンに支店を開設したという歴史があげられる。明治期においては、フランスの玄関は地中海の港町マルセイユもしくはノルマンディー地方の港町ルアーブルであり、マルセイユからパリをめざす途中でリヨンに滞在した日本人は少なくない。

■名門「オランピック・リヨネ」の栄光

 さて、このリヨンを代表するサッカーチームは「オランピック・リヨネ」である。リーグ戦では日本が一次リーグを戦う3都市にあるクラブの中で最高の今季6位となり、唯一来季の欧州三大カップに出場する。1950年に設立し、1954年から1983年まで一部にとどまり、前回紹介したFCナントに抜かれるまで、29シーズン連続一部リーグ在位は最長のものであった。
大都市にあるチームで財政的にもビッグクラブではあるが、フランスカップを3回獲得したことはあるだけで、リーグ戦では優勝経験はなく、最高は1994-95の2位である。オランピック・マルセイユが八百長疑惑で力を失い、戦国時代に入ったこのシーズン、FCナント・アトランティックが独走(21勝16分1敗)し、リヨンは19勝12分7敗で2位に入った。フランス代表の最多代表歴を誇るマニュエル・アモロス、グランゼコール出身者として代表入りし話題になったジャン・リュック・サスース、「フリアニの悲劇」の目撃者であるGKのパスカル・オルメタ、地元出身で15得点を上げたフローリアン・モーリスの活躍がジェルラン・スタジアムのリヨネ(リヨンっ子)を熱狂させた。
 これらの選手以上に評価を高めたのが、監督であったジャン・ティガナである。マリ共和国出身の小柄なティガナはワールドカップでは黄金の中盤の要となり、国際的に非常に高い評価を受けた。1985年にはボルドーの一員として来日経験もある。現役引退後、若くしてリヨンの監督に就任し、初年度の1993-94は8位、2年目で2位という好成績を残し、現在はモナコの監督を務めている。モナコでも1995-96は3位、1996-97は優勝、そして1997-98は3位と上位をキープし、ワールドカップ終了後の次期フランス代表監督の有力候補である。

■リヨンで最も有名な日系人は音楽家である

 リヨンは2年前のサミットで橋本龍太郎首相がデビューした都市でもあるが、残念ながらリヨンで最も有名な日本人(日系人)は橋本首相でもなければ、現在の日本代表のメンバーでもない。
 リヨンで最も有名な日系人はケント・ナガノ、リヨン国立歌劇団の音楽監督である。1951年にカリフォルニアのバークレーで生まれた日系三世のアメリカ人で、1989年からリヨン国立歌劇団の音楽監督をつとめ、数々の冒険的なオペラを上演し、次代を担う指揮者である。昨秋にはケント・ナガノの指揮するリヨン国立歌劇団が初来日した。就任から10年を経た今年、彼はリヨンを離れ、1991年から兼任してきた英国のハレ管弦楽団の音楽監督に専念することになったが、リヨンの市民に愛されてきた10年間であった。
 「リヨン国立歌劇団は常にリスクを背負って冒険し、時にはめざましい成功を収め、時には失敗した。しかし失敗しても誠意があったことを聴衆は理解してくれたし、21世紀へのビジョンを示すことができた」
 オペラだけではなく現代音楽も得意とするケント・ナガノはこう語っている。
 ケント・ナガノが去った町にモダンサッカーを標榜する日本イレブンがやってくる。ケント・ナガノの冒険的な試みが喝采をあびた町で日本イレブンはどのような21世紀へのビジョンを示してくれるのだろうか。

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