第36回 1998年最優秀選手 ヤジッド・ジネディーヌ・ジダン
■圧倒的な支持を得たジダンとフランス選手
年末年始に各種の最優秀選手が発表された。すでに予想されていたことであるが、ヤジッド・ジネディーヌ・ジダンがいくつものタイトルを圧倒的な強さで独占した。読者による投票として最も評価の高い月刊「オンズ・モンディアル」誌のオンズ・ドール(黄金のイレブン)では他の追随を許さぬ独走、なんと75.9%という圧倒的な得票率で最優秀選手に輝いた。
ちなみに、2位はファビアン・バルテスの5.9%、3位はエマニュエル・プチの3.7%であった。フランス語の雑誌でフランスの読者が多いせいもあるが、フランス選手が上位を独占した。また、併せて行われたポジション別のベストイレブンでも、11人中6人がフランス人選手だった。
ジダンは、サッカー関連記者によって行われる「フランスフットボール」誌制定の欧州最優秀選手でも、244ポイントという圧倒的な強さでバロン・ドール(黄金のボール)を獲得した。2位は68ポイントのロナウド(欧州のクラブに所属しているので対象となる)、3位は66ポイントのマイケル・オーウェンであった。こちらもフランス勢が躍進し、上位20名のうち7名を占めた。
フランス人選手の獲得は、本連載の第32回で紹介した1991年のジャン・ピエール・パパン以来7年ぶり。欧州最優秀選手は1956年に制定されたが、過去のフランス人選手の獲得はレイモン・コパ(1958)、ミッシェル・プラティニ(1983、1984、1985)、パパン(1991)のみであり、40年ぶりのワールドカップイヤーの獲得となった。なお、昨年もジダンはロナウド、プレドラグ・ミヤトビッチに続く3位に入っている。
■「記憶に残るゴール」がファンには高く評価された
ワールドカップ決勝での鮮やかなヘディングシュートが記憶に残るジダンであるが、実は今年の成績はそれほどいいものではない。ワールドカップ前の親善試合では3得点したが、ワールドカップでは決勝での2得点のみであり、しかもワールドカップ以降は無得点に終わっている。「背番号9.5」と表されるように、ストライカーとしての9番と攻撃的MFとしての10番の要素を併せ持つ選手であり、単純に数字だけ見ると満足できない。
しかしながら、ワールドカップ決勝という大一番で前回の覇者ブラジルを意気消沈させ、スタッド・ド・フランスの開幕試合の初ゴールで「無敵艦隊スペイン」を撃沈したのもジダンである。このような「記憶に残るゴール」が特にファンには高く評価されたのであろう。
■マルセイユでの少年時代とプロへの道
ジダンの経歴等についてはすでに広く知られているが、彼がアルジェリア移民の子供でマルセイユ育ちであることが大きく取り上げられた。アルジェリアのラ・カビリ出身の両親は職を求めてマルセイユのラ・カステラン地区に移住し、5人兄弟(兄3人、姉1人)の末っ子としてジダンは生まれた。フランス流のしつけで週末または翌日が学校が休みの日しかテレビを見ることが許されなかったという。これが効を奏し、ジダンは週末のサッカー中継だけは見ることができ、サッカーに対する想像力を育むことになった。
サッカーの盛んなマルセイユで育ち、週末になるとオランピック・マルセイユを応援するためにスタッド・ベロドロームに家族と足を運んだ。ジダンのブルーへの憧憬を強くさせたのは彼の12才の誕生日、1984年6月23日のことであった。当時、サンタンリというクラブに所属していたジダンは、欧州選手権の準決勝フランス-ポルトガル戦のボールボーイをつとめることになる。この試合は、フランスサッカー史上に残る名勝負であった(本連載第12回を参照)。
グラウンド上で試合を見ていたジダンは、この試合のヒーローの付けていた番号を志し、翌年には兄を追ってより高いレベルのSOセプティームに移る。このクラブでの活躍がASカンヌのリクルーターの目に止まり、ジャン・フェルナンデスが監督を務めるASカンヌに移籍。初めて親元を離れた内気で礼儀正しい少年は、クラブ幹部の家族に親切にしてもらったという。
1989年5月には弱冠16才で1部の試合(ナント-カンヌ戦)にデビューする。この試合の出場手当が5,000フラン、当時研修生としてわずか月給700フランのジダンには驚きだったという。1992年にはボルドーへ、1996年にはユベントスへとビッグクラブに移籍し、ワールドクラスの活躍をしていることに説明の必要はないだろう。
■あこがれのフランチェスコリと東京で対戦
しかしながら、彼の心にいつもマルセイユが宿っていたことは間違いない。8月30日にはマルセイユの現役、OBであるローラン・ブラン、ディディエ・デシャン、ロベール・ピレス、クリストフ・デュガリーとともに、マルセイユの旧港からのパレードに参加する。また、オンズ・モンディアルの表彰式には二人のゲストがジダンを讃えた。まず一人は1984年の欧州選手権準決勝のヒーロー、プラティニである。この試合がマルセイユ以外で行われていたならば、フランス・サッカーの新たな伝説は生まれなかったであろう。そして、もう一人は元ウルグアイ代表のエンゾ・フランチェスコリである。フランチェスコリは1980年代後半にはマルセイユに所属、若きジダンのあこがれの選手であり、ジダンは自室にフランチェスコリのポスターを貼っていた。
実はこの2人はピッチの上で対決したことだけが1度だけある。1996年の東京でのインターコンチネンタルカップである。ジダンはかつてプラティニが所属したユベントスの一員として、アルゼンチンのリバープレートと対戦したのである。マルセイユの夢が東京で実現するとはジダンも思っていなかったであろう。
さて、ワールドカップ優勝の翌日、シャンゼリゼは無数の三色旗がはためいた。しかし数は少ないが赤と黄色の旗が目についた。本連載の第34回で取り上げたRCランスのチームカラーと錯覚された方も多いと思うが、ランスからの代表選手はいない。実はこれはジダンが生まれ育ったラ・カステラン地区を代表するASヌーベルバーグのチームカラーである。ジダンがボールボーイをつとめたサンタンリというクラブは今はない。1992年に新設されたヌーベルバーグの名誉会長にジダンは就任している。シャンゼリゼの三色旗の中の赤と黄色の旗は、ジダンにとって最高の祝福であっただろう。