第56回 ディディエ・デシャンに予選突破を託す
■欧州選手権予選最終戦、デシャンに託される本大会への道
大混戦となった欧州選手権予選グループ4。予選突破もプレーオフ出場も最終戦で決定することとなった。最終戦を前にトップはウクライナ(勝ち点19)、2位はロシア(18)、3位はフランス(18)、4位はアイスランド(15)である。最終戦はこの4強が直接対決(フランス-アイスランド、ロシア-ウクライナ)という組み合わせであり、3位のフランスまで予選突破のチャンスがあり、アイスランドもプレーオフ出場の可能性がある。
フランスはアイスランドに勝てばプレーオフ出場以上を確保することができるが、欧州予選特有の規定(第25回連載参照)により、アイスランド戦に引き分けた場合はプレーオフ出場は厳しくなる。
ワールドカップ・アメリカ大会、欧州選手権イングランド大会に引き続き予選最終戦で本大会出場をかけることとなったブルーにとって、なくてはならない選手が主将ディディエ・デシャンである。
昨年9月からの予選で新たな伝説が生まれた。デシャンが代表として歴代最多となる87試合出場を達成したのである。従来の記録はマニュエル・アモロスの82試合であった。聖地ウェンブリーでアモロスに並んだデシャンは、新たなる聖地サンドニのウクライナ戦で前人未到の記録を達成した。また、予選突破に希望をつなぐ9月8日のアルメニア戦では通算出場時間が7265分となり、アモロスの7192分を抜いたのである。
デシャンというと昨年のワールドカップ優勝時にジャック・シラク大統領から受け取ったワールドカップを高々と持ち上げているシーンが印象的であるが、プレーの方は中盤の底で献身的に走り回り、やや地味なタイプである。またバスク系の童顔が年齢を感じさせないが、1968年10月15日生まれの30才。代表デビューからすでに10年経過したが、彼のブルーの歴史は栄光も苦難もある1990年代のブルーの歴史である。今回はデシャンの経歴を紹介しよう。
■最も重要な一戦で代表デビューを果たしたが・・・
デシャンの出身地はスペイン国境に近いリゾート地のバイヨンヌ。この町のアビロン・バイヨンヌというチームに15才まで所属し、ナントに移籍する。この若手育成に定評のあるクラブでマルセル・デサイーと出会ったことは本連載の第14回で紹介したとおりである。弱冠16才で1部リーグにデビューし、ミドルティーンの頃からその才能は高く評価されていた。
代表デビューは1989年4月29日、パルク・デ・プランスでのイタリア・ワールドカップ予選のユーゴスラビア戦。この試合はいろいろな意味でフランス代表のターニングポイントとなる試合であった。この試合に至るまでプラティニ率いるフランスは大苦戦。初戦のノルウェーにホームで勝っただけで、弱小キプロスとアウエーで引き分け、強敵ユーゴスラビア、スコットランドにアウエーで連敗し、1勝1分2敗。親善試合ではクラブチームのアーセナルに0-2で敗れるなど背水の陣でこの試合に臨んだ。
ホームでのユーゴスラビア戦で勝たなければほぼ予選落ちという試合でプラティニは、大ベテランのパトリック・バティストンを起用(彼にとっては最後のブルーのユニフォームとなった)。しかし、サフェット・スシッチ、ズラトコ・ブジョビッチというパリサンジェルマンに所属するユーゴスラビアの2トップに手を焼く。そして後半76分に投入されたのが、ダニエル・ブラボーの負傷欠場により約40人のバックアップメンバーからベンチ入りしていたデシャンであった。しかし試合はスコアレスドローで終わり、パルク・デ・プランスは深い失望に包まれた。後にプラティニはデシャンの起用をミスであったと認めている。
■デシャンの可能性を伸ばしたベテランMFパルド
しかしプラティニの心配は杞憂に終わる。心機一転し、ユニフォームも変えた夏からのブルーは遅すぎたエンジン全開となる。デシャンは代表2試合目の親善試合のスウェーデン戦で中盤を走り回り、早くも「中盤のパトロン」という称号を得て、アウェーながら4-2で撃破する原動力となる。4試合目には、引き分け以上ならイタリア行きの切符を獲得するスコットランドをパリに迎え、デシャンは代表初ゴールをマークし、フランスは3-0で完勝、前回大会3位の意地を見せた。代表デビュー7試合で3ゴールをマークし、92年欧州選手権に向けた期待の若手として注目されるようになった。
また、デシャンのデビュー戦は「負けに等しい引き分け」であったが、この後フランスは負け知らず、1992年2月19日にウェンブリーでイングランドに負けるまで、実に2年10カ月、19試合負け知らず(16勝3分)という記録をつくった。この期間中に最多出場したのがデシャン(17試合)なのである。デシャンがブルーのユニフォームを着て敗戦を経験したのと同じ競技場の同じ相手の試合でアモロスの最多出場記録に並び、初めて勝利を収めたということは特筆すべきである。
プラティニは守備的MFを2人配置し、技術面でやや難のあるデシャンの成長のために、このポジションにベルナール・パルド、フランク・ソーゼー、ジャン・フィリップ・デュランなどキャリア十分の選手を起用し、デシャンと組ませた。弱冠20才で代表入りしたデシャンにとって恩人となるのは同じポジションのパルドであった。ボルドー所属で8才年長のパルドは代表の練習で勝手のわからないデシャンに絶えず話しかけ、アドバイスをしてくれた。このパルドの存在がデシャンの代表での成功と代表の主将になってからの大きな財産となる。残念なことにその後パルドは長期負傷中に薬物に手を出し、逮捕されてしまうこととなるが。
■デシャンはプラティニを越えるか?
デシャンが初めてキャプテンマークを付けたのはエメ・ジャッケが就任し、国内第1戦となった1994年3月22日のリヨンでのチリ戦。そして欧州選手権があった1996年6月からは出場した全39試合でキャプテンマークを付けている。すでに20才で代表入りした時点で名門ナントの主将を務めており、リーダーとしての資質を持っていたが、欧州選手権本大会直前にキャプテンマークを託したジャッケの抜擢人事である。ジャッケは欧州選手権準決勝のチェコ戦にデシャンが出場していれば、優勝できたと今でも悔やんでいるという。
2度のワールドカップ予選落ちを経験し、3度目の正直で出場したワールドカップでの優勝。たぐい希なるキャプテンシー、精神力、けがに強い身体、これほどキャプテンマークの似合うフランス人はいない。フランス代表の最多主将経験者はデシャンを代表にデビューさせたプラティニ(49試合)である。今まで42試合でキャプテンマークを付けているデシャンが「将軍」を抜くのは欧州選手権の本大会であろうか。