第6回 アメリカ・ワールドカップ予選敗退は「悲劇」ではなかった
■ホーム2試合を残し、あと「勝ち点1」でアメリカへ
今までの連載中に、フランス代表がアメリカ・ワールドカップの本大会出場を最後の最後で逃した「パルク・デ・プランスの悲劇」について知りたいというメールを何人かの方からいただいた。
アメリカ・ワールドカップ予選開幕までの道のりを記すとこうなる。
1990年のイタリア大会に出場できなかったフランス代表は、92年の欧州選手権(スウェーデン)の予選をグランドスラム(8戦全勝)で突破し、優勝候補と言われながら、本大会で惨敗した。そして、その2カ月後にはアメリカ・ワールドカップの予選が始まった。折しも1998年のワールドカップのフランス開催が決定し、ミッシェル・プラティニは代表監督から組織委員長に変わり、後任の監督はジェラール・ウリエになった。
アメリカ・ワールドカップの予選はフランス、スウェーデン、ブルガリア、オーストリア、フィンランド、イスラエルの6か国で行われ、上位2か国が本大会の出場権を得る。92年9月の予選の初戦でフランスはアウエーでブルガリアに敗れる。しかしその後は順調に6連勝、93年8月22日には最大の強敵スウェーデンとのアウエーでの戦いも引き分け、9月8日にはフィンランドにアウエーで2-0で勝ち、ホーム2試合を残して勝ち点1をあげれば本大会出場となった。残るはアウェーで4-0と完勝したイスラエル(10月13日)と初戦で敗れたブルガリア(11月17日)である。
■微妙な国際情勢の中でイスラエル戦に敗北、そしてブルガリアとの直接対決
パリでは珍しい豪雨の中で行われたイスラエル戦は政治的な動きが微妙な影を落とす。この試合のちょうど1月前の9月13日にパレスチナ暫定自治協定が調印され、この時期イスラエルと言えばサッカーではなく世界政治のキープレーヤーであった。欧州の予選の試合であるにもかかわらず、ペレが駆けつけ、テロ活動に備えた物々しい警備の中で試合が行われた。試合は結局、フランスが終盤に追いつかれ、ロスタイムに決勝点を許し、2-3で敗れた。フランス代表がホームのワールドカップ予選で敗れたのはメキシコ大会の予選の1968年のストラスブールでのノルウェー戦以来6大会ぶりのことである。この試合の後、フランスでは「政治的な動きの中でフランスはイスラエルに負けてやったのではないか」という世論がわき起こった。
そして最終戦のブルガリアとの直接対決を迎える。終始緊張気味のフランス代表は動きも悪く、主将でエースのジャン・ピエール・パパンも途中で交代させる。それでも終了直前まで1-1をキープし、このまま逃げ切るかと思ったが、ロスタイムに入ってダビッド・ジノラが敵陣深くの右サイドから蹴ったフリーキックは無人の左サイドに。ブルガリアの右DFに直接渡り、縦パスをつなぎ、この日同点ゴールを決めているエミール・コスタディノフがドリブルで突進し、ブルガリア応援団の前を駆け抜ける。スピードに乗ったドリブルから放たれたシュートはフランスGKのベルナール・ラマも防ぐことができず、ゴールネットを揺らした。
■予想外の敗戦にも、人々は整然と家路についた
折しも「ドーハの悲劇」の直後ということもあり、日本ではこの試合は「パルク・デ・プランスの悲劇」と言われている。しかしながらこの試合、まったく悲劇を感じさせることはなかった。勝ち越し点を奪われたフランス・イレブンはグラウンドに崩れ落ちるわけではなく、いつもの失点同様、ボールをセンターサークルに蹴り返し、試合がキックオフされる。そしてその数秒後、タイムアップの笛が鳴っても、歓喜するブルガリア・イレブンをよそに、肩を落としてロッカールームへと引き返していく(ちなみにこの試合の主審は現在来日しているスコットランドのレスリー・モットラム氏である)。
また、スタジアムに集まった観衆(48,402人と発表されているが、協会にチケットの申込があったのは20万人以上と言われている)も騒いだり、物をスタジアムに投げ込んだりすることもなく、もちろん涙を見せることもなく家路についた。地下鉄では整然と列を作って乗車がなされ、混乱はなかった。涙を見せていたのはブルガリア・イレブンとそのサポーターであった。
翌日の新聞も「予選敗退」という表現が中心で、「悲劇」という表現は使われてはいない。日刊紙の「リベラシオン」に至っては「フランス代表、1998年ワールドカップに出場」という見出しであった。すなわちフランス人にとってワールドカップ予選の敗退を含め、サッカーの試合の勝敗そのものは悲劇にはなり得ないのである。
それではフランスのサッカーには悲劇はないのか。断じてそのようなことはない。フランス人がサッカーで「悲劇」という単語を使うことはしばしばあるのである。(つづく)