第61回 リベンジなるか、テニス「デビスカップ」
■デビスカップ初期の強豪国が四大大会の開催国に
1900年代もあと1カ月。この歴史の最後を飾る国別対抗のスポーツイベントが、今回ご紹介するテニスの「NECデビスカップ」決勝である。
歴史あるこの大会は1900年に始まり、1900年代を象徴するスポーツイベントである。第1回の大会では米国が英国を3-0で破り、スポーツの世界における米国の輝かしい1900年代の幕開けとなった。創生期は米国と英国が優勝を争い、ここに豪州が加わり四連覇を達成している。米国は第一次世界大戦直後に、いまだに破られていない七連覇を果たし、黄金時代を迎えた。この間日本も1921年にアメリカに挑戦したが0-5で敗れ、優勝を逃している。
米英豪の三か国の牙城に割り込んだのがフランスである。1925、26年に米国に挑戦したが敗れ、七連覇を許したが、1927年のフィラデルフィアでの戦いではルネ・ラコステ、ジャン・ボロトラ、アンリ・コシェらの活躍で米国を破り、初優勝する。そして1932年までフランスのテニスのメッカ、ローラン・ギャロスで六連覇を達成する。
このようにデビスカップの初期の段階で覇権を争った米英豪仏の四か国で行われるテニスの大会が現在の四大大会となっているのである。
■豪州との「リターンマッチ」となる今年の決勝戦
1970年代、相次ぐプロトーナメントの誕生により低レベルの大会となったが、1981年に日本の電機メーカーであるNECがスポンサーとなり、大会を復興。現在のように決勝戦がテニスシーズンのフィナーレを飾り、世界中の注目を集めるイベントになったのである。
そして、1900年代最後の決勝がフランスと豪州の間で争われる。1900年代最初の大会が米英の争いであり、最後の戦いが四大大会の残りの二か国とは興味深い。また、このカードは11月7日にウェールズのカーディフで行われたラグビーのワールドカップと同じ顔合わせである。準決勝で優勝候補筆頭のニュージーランドを破ったフランスの勢いが豪州には通用せず、12-35で完敗したことは記憶に新しい。
昨年のサッカーのワールドカップ、前述のラグビーのワールドカップと、フランス代表チームの活躍はめざましい。フランス人は個人主義と言われているが、ナショナルチームを結成すると普段以上の力を発揮することは昨年と今年の二つのワールドカップでの活躍でもおわかりであろう。フランスのナショナルチームの活躍として象徴的なのが1990年代のフランス・テニスチームである。「ローラン・ギャロス(全仏オープン)とデビスカップの優勝をどちらをとるか」という質問に対し、フランス人選手は後者を選ぶ。同じ質問を他の三か国の選手にすれば、答はわからない。それほどまでフランス人は三色旗の下での戦いに燃えるのである。
■90年代、60年ぶりの復活を果たしたフランス
さて、1927年から1932年までの栄光の六連覇の後、フランスは英国に敗れ、デビスカップの決勝から久しく遠ざかってしまう。それ以降でフランスが決勝に進出したのはなんと1982年、50年ぶりの栄冠をかけグルノーブルに米国を迎えた。
シングルス第1戦は両国のナンバーワンのヤニック・ノアとジョン・マッケンロー、第1セットから10-12と熱戦、結局ノアはフルセットの末、マッケンローに敗れ、ナンバーツー同士でもアンリ・ルコントがジェン・メイヤーに連敗、結局フランスは1-4で敗れる。
そして、1991年、ノアがキャプテンとなり、ギ・フォルジェ、ルコントを中心としたフランスは、ニームの古代遺跡で行われた準々決勝の豪州戦に勝つと波に乗り、抜群のチームワークで決勝進出を果たす。宿敵米国との決勝が行われたリヨンのパレ・デ・スポーツは割れんばかりの大歓声。後に1990年代を代表するテニスプレーヤーとなり、先週末のATPツアー世界選手権の決勝を争った当時21才のアンドレ・アガシ、20才のピート・サンプラスは完全に調子を崩す。結局フランスが3-1で勝利し、実に59年ぶりの優勝を果たした。(優勝の歓喜のあまりシングルスの最終戦は中止となった)
1996年もノアがキャプテンとなり、決勝進出を果たす。決勝の相手はステファン・エドベリを擁するスウェーデン、しかもマルモでのアウェーゲームである。シングルスの初戦ではエドベリが負傷のためセドリック・ピオリーンが幸運な1勝、続くアルノー・ブッシュがエンクベストに敗れたが、二日目のダブルスでフォルジェ、ギヨーム・ラウー組が勝って王手をかける。三日目、ピオリーンがフルセットの末エンクベストに敗れる。最後のシングルスはブッシュがエドベリの代役のクルティと対戦する。これまたフルセットにもつれ込み、最終セットもマラソンセットとなる。結局三回のマッチポイントをしのいだブッシュが10-8で最終セットをとり、マルモの奇跡と呼ばれた。
■豪州有利の前評判は揺るがないが・・・
そして迎えた1999年、フランスのキャプテンは二度の優勝の原動力となったフォルジェ。ピオリーンを軸にしたチームは1回戦でオランダを4-1と破ると7月にブラジルと対戦する。1年前のワールドカップの雪辱を果たすためにポーに乗り込んだブラジルとの戦いは接戦となるが、ピオリーンのシングルスでの2勝により3-2でブラジルを返り討つ。9月に行われた準決勝の相手はサッカーではライバルのベルギー。しかしながら初日のシングルス、二日目のダブルスと3連勝し、4-1で楽勝し、1990年代三回目の決勝進出を決めたのである。
さて、決勝の相手、豪州は準々決勝では米国、準決勝はロシアと、強敵を下して決勝に臨む。豪州はナンバーワンのパトリック・ラフター、18才の新星ライトン・ヒューイットに加え、弾丸サーブのマーク・フィリポーシスも加わる万全の体制。キーポイントとなるダブルスもスペシャリストのマーク・ウッドフォード、トッド・ウッドブリッジ組がフランス入りした。
過去の両国の対戦成績(フランスの3勝、豪州の9勝)に加え、メンバーの力の差から豪州有利の前評判は決戦の地、南仏ニースでも揺るがない。しかし、三色旗の下では実力以上のものを発揮するフランス・ナショナルチームである。1991年の準々決勝では2勝2敗で迎えた最終のシングルスに初起用した弱冠18才のファブリス・サントロがワリー・マシュールを破る大金星。サントロは今回もダブルスのメンバーに入っている。ウェールズのミレニアムスタジアムでの雪辱を果たし、来るべきミレニアムをデビスカップとともに迎えようとしているのである。