第62回 半袖ユニフォームの名手、ジョエル・バツの訪日

■ブラジルとの死闘を制した名GK

 サミットメンバー国から今年最後の国賓級の訪日として、16日からフランスのリオネル・ジョスパン首相が日本を訪れる。社会党のエースとして1995年の大統領選での大善戦はまだ記憶に新しいが、保守政権下の首相としてライバルのジャック・シラク大統領を支えている。今回の訪日によって、2000年以降の新たな日仏関係が構築されることに期待したい。
 さて、サッカー界でも今月初めに元フランス代表GKのジョエル・バツが訪日し、日本代表の合宿でコーチを行った。
 フランスは伝統的にゴールキーパーに人材がいない国と言われるが、「ワールドカップ史上最も美しい試合」と言われている1986年ワールドカップ・メキシコ大会準々決勝のブラジルとのPK戦の死闘を制したGKと言えば日本の皆さんもよく覚えておられるであろう。

■フランスの若手育成システムの申し子

 バツは1957年1月4日南西部のモン・ド・マルサンで生まれる。2才の時の写真には、すでにサッカーボールとともに写っている。フランスの少年ならば誰でもサッカーに親しむ。そしてフランスの少年であれば誰でもがフィールドプレーヤーにあこがれる。バツが初めてサッカースパイクを履いたのは6才、左利きのバツは左ウイングとして地元のクラブで活躍した。
 しかし、そんなバツ少年が背番号1を背負うことになるのは偶然のことであった。10才の時、スペイン遠征でチームのゴールキーパーが負傷し、リザーブがいなかったためバツがゴールを守る。大活躍したバツはその後ゴールを守ることになるのである。15才で南西部選抜のメンバーとしてサンテエチエンヌ近郊のフールで行われた大会に出場し、最優秀ゴールキーパーに選ばれる。当時フランスサッカーの頂点であったサンテエチエンヌから声がかかり、3週間の合宿に参加する。しかし、サンテエチエンヌのコーチは結局バツではなくユーゴスラビア人のゴールキーパーと契約し、バツとの契約を破棄する。初めて長期間にわたり親元を離れたバツは傷心の帰郷をするが、プロとの最初の契約がうまくいかなかったことが、逆にバツに精神的な強さをもたらしたのである。
 そして1974年にプロ契約したクラブはソショー。プジョーが支援するこのクラブに入ったことはバツにとってメリットをもたらした。フランス協会は1960年代から70年代にかけてのフランスサッカーの低迷期を脱するため、各クラブに育成機関を設けることを提言する。プジョーの支援を受けたソショーは工場の従業員寮を転用し、育成機関をスタートさせる。この恵まれた育成機関の一期生となるバツの同期生には、後にブルーのユニフォームを着ることとなるヤニック・ストピラ、ベルナール・ジャンニーニがいた。
 また当時のソショーには代表GKもつとめたアルベール・ルストがおり、バツには高い壁となったが、1976年9月10日についにリーグ戦にデビュー。相手は奇しくも自らを断ったサンテエチエンヌ。試合後、大スターのジャン・ミッシェル・ラルケ、ドミニク・ロシュトーがバツに頬を寄せ、感激しているシーンがテレビで中継された。後にリーグ戦504試合出場、代表50試合出場となる名GKの出現を予測していたのであろうか。そして、バツは1980年には1部に昇格したばかりのオセールに移籍し、名将ギ・ルーの下でほぼフル出場する選手に成長した。

■猛暑の試合で誕生した半袖ユニフォーム

 バツは、翌年の地元開催の欧州選手権を控えた1983年9月7日、デンマークとの親善試合で代表にデビューすることとなる。以後フランス代表のゴールを守り、数々の名勝負の主役となるが、圧巻は1986年ワールドカップ・メキシコ大会の準々決勝のブラジルとのPK戦である。
 バツ自身が最初の代表デビューと思っているのは1975年にリールで行われたジュニア代表のベルギー戦である。この時、着ていた黄色いユニフォームをバツはその後も大切にし、黄色いユニフォームを着用するか、その黄色いユニフォームをアンダーウェアとして着用することになる。そして迎えたカナリア軍団との猛暑の中での準々決勝。当然ながらブラジルのユニフォームは黄色。バツは黄色いユニフォームを着ることができず、グレーのユニフォームを着用する。アンダーウェアに11年前に初めて袖を通した黄色いユニフォームを着る。しかしながら猛暑に耐えきれず試合中にバツはグレーのユニフォームと思い出の黄色いユニフォームの袖を切り落とす。このような経緯で誕生した「半袖ユニフォーム」のゴールキーパーはブラジルとのPK戦を制することとなるのである。
 そして代表として最後の試合は1989年11月18日、トゥールーズでのワールドカップ・イタリア大会の予選最終戦である。相手は弱小キプロス。弱小といいながらアウェーでの引き分けがイタリア行きの切符を失うことになった相手である。バツのところには結局シュートが一本も飛ばず、2-0で勝利した後、ファンは黄色いユニフォームを着用したバツを祝福したのである。
 1985年にビッグクラブのパリサンジェルマンに移籍し、7年間で254試合出場、名実ともにパリの顔となり、1985-86シーズンにはリーグ優勝を果たした。これがプレーヤーとして唯一のクラブでのタイトルとなった。

■引退後、指導者の道へ

 バツは1992年の引退後、パリサンジェルマンのGKコーチとなり、後継者を育成する。バツ引退後に残っていたGKはオリンピック代表のリシャール・デュトルエルとランスから移籍してきたB代表のベルナール・ラマ。二人ともその後成長し、ラマは遅咲きのGKとして代表入り、昨年のワールドカップでは出番はなかったものの、欧州選手権予選の最終戦で見事返り咲き、本大会出場へ貢献したことは本連載の第58回で紹介したとおりである。
 1996年、パリサンジェルマンはリカルド・レイモン・ゴメスを監督に招聘した。現役晩年のバツとコンビを組んだブラジル人名ストッパーであった彼は、監督ライセンスを持たなかった。そこで実質的な監督権能はリカルドに渡すが、バツが監督に据えられたのである。そしてこの経験をもとに、バツは1998年からパリサンジェルマンの系列でユニフォームの色も同じ2部のシャトールーの監督となる。パリサンジェルマンとしては将来の監督候補として「子会社の社長」に「出向」させたわけである。初年度の1998-99シーズンは上位に進出し、8位となるが、2年目となる今季は出足でつまづき、9月8日の第8節でラバルに0-4で敗れて1勝2分5敗の19位に落ちたところで更迭されたのである。
 失業中のフランス人指導者が日本に来て息を吹き返した好例はアルセーヌ・ベンゲルである。4日間という短期間ではあったが、これを機会にバツが再び名指導者としての道を歩むことを期待したい。

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