第77回 「グラン・ブルー」伝説の二冠(後編)
90年代後半のフランス・サッカーは、それまでの国際大会での不振を忘れさせるかのような活躍をする。特に今大会の決勝トーナメントでの3試合、いずれの試合も「実力」「運」に加えて「運命」を感じさせる戦いで、90年代前半のフランスからは考えられない試合であった。この理由について探ってみよう。
■ボスマン判決後の選手の国外流出と勝負強さ
まず、ボスマン判決後に多くの選手が国外でプレーし、厳しい戦いを経験し、勝負に対する執念というものを体得した効果がある。96年のボスマン判決により選手の国外流出が盛んになり、今回のブルーのうちフランス国内のチームに所属しているのはわずか8人。歴代のフランス代表で最少となった。イタリア、スペインは全員が国内リーグに所属しており、国内リーグ所属8人というのは参加16か国中9位である。また今大会に出場した他国の選手でフランスリーグに所属しているのはモナコのコスティーニャ(ポルトガル)、スダンのドゾニ・ノバック(スロベニア)など5人で、今大会に出場した選手のうちわずか13人しかフランスリーグに所属していない。イングランドリーグに60人、スペインリーグに54人、イタリアリーグに50人と選手が集中し、13人のフランスリーグは9位である。
前回の96年大会のフランス代表のうちフランスリーグ所属は18人、他国代表も含めてフランスリーグ所属は21人、前々回の1992年大会はフランス代表22人全員がフランスリーグに所属していた。フランスリーグからの人材流出が結果としてフランス代表の奇跡的な勝利につながった。
■選手の固定化
今大会メンバーのうち18人は2年前のワールドカップに出場したメンバーである。大会開幕時に代表歴が一桁の選手はウルリッシュ・ラメ(代表歴2試合)、とジョアン・ミクー(同5試合)の二人だけで、参加国の中で最少。決勝で対戦したイタリアには代表歴一桁の選手が9人おり、高齢化が課題となっているドイツですら7人いる。この理由はもちろん若手の伸び悩みもあるが、若手をテストするような余裕がフランスになかったというのが正直なところである。グループリーグ最終戦のオランダ戦は決勝トーナメント進出が決定しており、ブルージュに残るために2位を狙うという条件が整っていたため、控えメンバーで戦うことができた。しかし、ようやく最終戦で本大会出場を決めた予選では気の抜ける試合はなく、ラメのデビュー戦となったアンドラ戦ぐらいである。また親善試合も他国リーグに所属している選手を里帰りさせてコンビネーションの調整に追われ、国内リーグに所属する若手選手を起用する余裕はなかった。
90年代前半は逆にビッグゲームでも若手が起用され、本連載でも紹介したとおりディディエ・デシャンはワールドカップ・イタリア大会予選で首の皮一枚となったユーゴスラビア戦、ユーリ・ジョルカエフはワールドカップ・アメリカ大会に王手をかけながら、2-3で負けてしまったイスラエル戦、ベルナール・ラマ、ビクセンテ・リザラズ、クリスチャン・カランブー、マルセル・デサイーも代表デビューはワールドカップ・アメリカ大会の予選である。一方、90年代前半までに代表デビューをした選手のうちそれ以外のローラン・ブラン、エマニュエル・プチ、ジネディーヌ・ジダン、リリアン・テュラム、ファビアン・バルテス、クリストフ・デュガリーは親善試合がデビュー戦である。
■黄金のディフェンスライン
選手の固定化は逆に戦術、フォーメーションの固定化を生み出す。基本的には今回も強固なディフェンスを基盤として、デシャンを中心とする中盤の守備、ジダンが形成する中盤、そして一長一短のある攻撃陣という陣容である。
フランスのディフェンスラインは左からリザラズ-デサイー-ブラン-テュラム。この4人でディフェンスラインを構成した試合は22勝5分と負け知らず。実はこの4人のディフェンスラインが初めて登場したのは前回の欧州選手権のグループリーグ最終戦であった。
予選ではルーマニアに次いでようやくグループ2位となり、本大会出場枠の増加の恩恵を受けてドーバー海峡を越えたフランス。これを待ち受けていたのはルーマニア、スペイン、そしてブルガリア。ルーマニアに勝ち、スペインと引き分け、勝ち点4同士で最終戦の相手は2年前の悪夢が脳裏に刻み込まれているブルガリア。勝てば文句無くトップで決勝トーナメントだが、引き分け以下ではスウェーデン大会同様グループリーグ敗退の危険性が高かった。今大会のオランダ戦とは全く違うシチュエーションで最終戦を迎えたのである。
ニューキャッスルのセント・ジェームズ・パークでの大一番に当時の代表監督エメ・ジャケが初めて起用したのがこの4人のバックスラインなのである。この試合、ブランの先制点などで3-1と完勝し、フランスは自国開催の84年大会以来2度目の決勝トーナメント進出を決めるとともに、その後の黄金のディフェンスラインがサッカーの母国で誕生したのである。
96年6月18日のこのディフェンスラインの誕生以来、フランス代表は52戦のうち7敗(うち2敗はPK負け)しているが、いずれの試合も4人のうち誰かがこのディフェンスラインからはずれていたのである。6月4日、モロッコで日本はフランスをあわやというところまで追い込んだが、もしも日本が金星をあげていれば、黄金のディフェンスラインから勝利をもぎ取った最初で最後のチームとなったはずである。
■デシャンの抜群のキャプテンシー
パトリック・ビエラの活躍もあり、今大会はやや精彩を欠いたデシャンであるが、決勝戦の終盤の動きは鬼神を思わせた。縦横無尽にフィールドを走り回る姿はチームメートを鼓舞し、ついにカテナチオをこじ開けたのである。ジダンが用意した鍵を差し込んだのはシルバン・ビルトールであり、ダビッド・トレズゲであるが、重い扉を押し開いたのはデシャンである。本連載でも紹介したとおり、デシャンは96年6月以来、先発出場した全ての試合でキャプテンマークをつけている。決勝のイタリア戦は最後のキャプテンマークと言われ、最後の力を振り絞り、二回目のトロフィーを授与された伝説のキャプテンとなったのである。
このように今回の栄光は96年の欧州選手権イングランド大会が起点となっていることがわかる。ちょうど78年のワールドカップ・アルゼンチン大会が80年代のフランス・サッカーの黄金時代を導いたのと似ている。イングランド大会のキャッチコピーは「サッカーが母国に戻ってきた」であったが、それはフランス語に訳すと「フランス・サッカーの伝説が生まれた」だったのかもしれない。