歴史を切り開くアフリカの雄――チュニジア代表 自主独立の精神がもたらした3度目のワールドカップ(4/4)
■自主独立路線がもたらした予選突破
さて、フランスから独立したことからフランスとの結び付きが強いのではないか、と思われる読者の方も多いであろう。実際に、チュニジアを観光するほとんどの日本人はパリでトランジットし、チュニジアではフランス語で会話をする。しかしながら、カルタゴ以来のローマ文化の影響、独立までの経緯、独立後の近代化路線、恵まれた資源という点から、フランスへの依存度はほかのアフリカ諸国よりも低い。貿易に関しても、ほかのフランス語圏のアフリカ諸国が輸出入ともフランスが断然トップであるのに対し、チュニジアの場合はイタリアとフランスが首位の座を競っている。ほかのアラブ諸国ではなかなか見つからないイタリアンレストランをチュニジアではたやすく見つけ、ピザやパスタを口にした日本人観光客は少なくないはずである。
また、独立後の近代化路線は自主独立の道を貫き、これがサッカーの世界にも大きく影響している。アフリカの中ではトップクラスの力を持ちながら、ほとんどの選手は国内リーグで活躍している。リーグのスタートも欧州諸国よりも早く、代表よりもまずクラブ、という点も非常に欧州的である。クラブレベルで有名なのはチュニスにあるエスペランス。現在リーグ4連覇中であり、過去10年間で6回、通算17回の優勝を誇り、アフリカクラブ選手権での優勝経験もあり、多くの代表選手を抱えている。
国外リーグに所属しているのは、ドイツ・ブンデスリーガのフライブルクに所属するアデル・セリミとゾウバイヤー・ベヤの2人だけであり、ほとんどの選手が国内リーグに所属していることが今回の予選突破の大きな要因でもあった。というのは、アフリカの大会は欧州、特にフランスのサッカーカレンダーを考慮してプログラムされているが、どうしても選手が所属している欧州のリーグ戦などを優先しなくてはならないときがある。ワールドカップ予選といってもベストメンバーが組めないのは、コンフェデレーションズカップで訪日したカメルーンを紹介したときにも述べた。しかし、チュニジアの場合は常にベストメンバーをそろえることができる。4月下旬という欧州各国のリーグ戦が佳境を迎えている時期に、1週間も合宿ができることは大きなアドバンテージである。実際、5月20日の天王山でコートジボワールはメンバーの招集に苦労し、結果的にチュニジアに代表の座を譲ることになった。
■2002年に真の姿を見せるチュニジア
多くのチュニジア人がフランスで生活しているが、サッカー選手というと、かつてナントに所属していたエースのセリミと、昨シーズンまでバスティアに所属していたチュニジア代表歴もあるリベイロ・クレイトンくらいである。しかしながら、チュニジアはフランス代表が最初に試合を行ったアフリカの代表チームである。日本が初めてワールドカップ本大会を戦った地トゥールーズで、チュニジアは1978年のワールドカップを控えたフランス代表と戦っている。1-2で敗れたものの、この戦いが直後のアルゼンチンでの大活躍につながっていることは間違いない。
また、アフリカ選手権の準優勝という勲章を引き下げて1996年に日本を訪問し、10月13日に神戸総合運動公園ユニバー記念競技場で日本代表と対戦している。代表よりクラブ、という考え方から主力選手はアフリカクラブ選手権などに出場しており、代表メンバーではない選手がほとんどであった。名将カスペルチャックもコマ不足はいかんともし難く、アフリカ選手権の準優勝チームの面影はまったくなく、シュート数はわずかに3。日本の猛攻に必死に耐えようとしたが、17本のシュートを打たれ、0-1でいいところなく敗れている。
唯一のゴールを決めたのはアトランタオリンピックでも活躍した前園真聖。この試合での活躍をステップとして、その後国外の強豪クラブに移籍していった。また、翌年にワールドカップ史上初のゴールデンゴールを記録することになる、岡野雅行が代表として初先発した試合でもあり、日本のファンの皆さんには特別な思いのある試合であろう。
2002年のワールドカップでは、5年前の神戸の姿とは違う、真のチュニジア代表が、1978年以来の活躍をしてくれることを期待したい。(了)