歴史を切り開くアフリカの雄――チュニジア代表 自主独立の精神がもたらした3度目のワールドカップ(2/4)

■表舞台に返り咲いた98年フランス大会

 チュニジアが再びその姿を世界に現したのは、98年のフランス大会である。一次予選で内戦の影響が残るルワンダを倒し、リベリア、エジプト、ナミビアと同じグループ2に入る。終始トップに立ち、97年6月7日にカイロで逆転の望みをつなぐエジプトと対戦する。チュニジアはこの試合を0-0で乗り切り、両チーム残り1試合で勝ち点の差は6、チュニジアは最終戦を待たずして2度目のワールドカップ本大会出場を決めたのである。
 久しぶりに戻ってきた本大会での初戦の地はマルセイユ。多くの移民が住む町、そして29年前にモロッコと70年ワールドカップ・メキシコ大会の予選でプレーオフを戦った因縁の地である。相手はサッカーの母国、イングランド。キックオフの笛を吹くのは日本の岡田正義氏。このような最高の舞台が用意されたが、アラン・シアラー、ポール・スコールズに得点を許し、0-2と敗れ、続くモンペリエでのコロンビア戦でも83分に失点し、連敗。グループリーグ敗退が決定した。
 フランス系ポーランド人のアンリ・カスペルチャック監督が更迭され、フランスでの最後の戦いの舞台はスタッド・ド・フランス、相手は連勝して決勝トーナメント進出を決め、全員が金髪に染めたルーマニアである。この試合でチュニジアは意地を見せ、10分に得たPKをスカンデ・スアエハが決めてチームの大会初得点を挙げる。負けると決勝トーナメント1回戦でアルゼンチンとの対戦が予想されるルーマニアは、休養を取らせていた主力を交代出場させ、ようやく72分にビオレル・モルドバンが同点ゴールを決めて1-1のドロー。結局チュニジアは前回出場時に及ばない1分2敗という成績でフランスを去ったのである。

■白い呪術師に不覚を取ったアフリカ選手権

 ここでチュニジアのアフリカ選手権における歴史を簡単に振り返ってみよう。
 初出場の1962年の第3回大会では、優勝した開催国のエチオピアに敗れたものの、ウガンダを破り3位になる。65年の第5回大会は開催国となり、決勝に進出したが、前回優勝のガーナに2-3で敗れ、惜しくも準優勝。68年大会は予選の途中でリタイア。70年大会からは3大会連続でエントリーせず、アフリカサッカー界の混乱を象徴している。その後、80年のナイジェリア大会(4位)、82年のアルジェリア大会(グループリーグ敗退)と連続出場するものの、94年の地元開催までまたしても本大会から遠ざかった。94年大会はワールドカップ・アメリカ大会の前に行われた。ワールドカップ予選は3勝3分と無敗ながら、宿敵モロッコに勝ち点でわずか1及ばず、1次リーグで敗退していた(モロッコとの戦いはホーム、アウエーとも引き分けであった)。ワールドカップ予選の巻き返しということで期待を集めたが、マリに0-2、ザイールに1-1と、いいところなくグループリーグで姿を消してしまった。
 そのため、長い間自国の監督を据えてきた協会も、一つの決断を下す。フランスで数多くのクラブチームの監督を歴任し、93年からコートジボワール監督を務め、94年大会でコートジボワールを準決勝に導いた、ヘンリク・カスペルチャックを第13代の代表監督に招聘(しょうへい)したのだ。
 国民の期待も薄れていた96年大会は、6大会ぶりに予選を突破する。舞台は国際スポーツ界に復帰した南アフリカ。グループリーグでモザンビークと1-1の引き分け、ガーナに1-2と敗れ、最終戦は23年前にワールドカップ予選で苦汁を飲まされたコートジボワールである。この試合でチュニジアの攻撃陣が爆発して3-1と大勝、決勝トーナメント進出を決める。決勝トーナメントでは準々決勝でガボンにPK勝ち、準決勝ではザンビアを4-2と一蹴(いっしゅう)し、決勝に進む。決勝の相手は地元、南アフリカである。前年のラグビーワールドカップ決勝が行われたヨハネスバーグのエリスパークは満員の観衆で埋まり、観衆の後押しに気おされたか、チュニジアは0-2と敗れ、初の決勝進出で栄冠をつかむことはできなかった。
 しかし、ここからチュニジア・サッカーは勢いを得て、続く98年大会も予選を突破し、グループリーグではガーナに敗れるが、コンゴ民主共和国、トーゴを連破し、決勝トーナメント進出。決勝トーナメント初戦となった準々決勝の相手は地元ブルキナファソ。この小国を率いるのはフランス人監督フィリップ・トルシエである。フランス本国での経験ではカスペルチャックの足元にも及ばないトルシエ。しかし、試合は1-1のままPK戦に突入し、ブルキナファソが4-2で勝ち、白い呪術師を相手に不覚をとったのである。<続く>

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