連覇を狙うフランス・サッカー 若き“ブルー”の肖像~ワールドユース、フランス戦記(6)
「汚れた戦争」の中で行われた、知られざる死闘
難関ドイツを破り、準々決勝に進んだフランスを待ち受けていたのは開催国のアルゼンチンである。前回の記事にあるとおりドメネッシュ監督は優勝候補にアルゼンチンをあげていなかったが、グループリーグは難なく3戦3勝、ブエノスアイレスに居座り、1978年のワールドカップ地元優勝の再現も思わせる快進撃ぶりである。
1978年のワールドカップについては歴代のワールドカップの中でもっとも政治に左右された大会として苦々しく思うファンは少なくない。そしてその最初の被害者がフランスであるという説も否定はできない。この大会は第2回大会のイタリア大会以来の軍事政権下で行われ、当時の政治情勢が大会に黒い影を落とした。本連載の最初の回で紹介したとおり、初戦を落としたフランスは2次リーグ進出をかけてブエノスアイレスのリバープレートで地元アルゼンチンに挑戦した。フランスがワールドカップの本大会で開催国と対戦するのは1966年大会のイングランド戦以来史上2回目のことである。背番号15の若き将軍プラティニを中心とするフランスは負けるわけにはいかない。一方、初戦でハンガリーを破っているアルゼンチンも次の相手がイタリアであることを考えると、フランスに勝って2次リーグ進出を早めに決めておきたいところである(結局アルゼンチンはイタリアに敗れ1次リーグ首位を逃す)。
両チームはこの大会のベストゲームとも言えるような見事な試合運びを見せる。しかしながら、審判の微妙な判定が勝敗に影響した。まずは前半のロスタイム、ルーケを倒した主将マリウス・トレゾールにハンドの判定。そして後半ディディエ・シスがペナルティアリア内で明らかに倒されながらもノーホイッスル。主審はスイス人であり、ドイツ語圏の出身であったという。第2次世界大戦の終結からまだ30年強という当時、軍事政権下でのレフェリングに影響が全くなかったわけではなかろう。
当時のEC諸国はアルゼンチンの軍事政権に対して批判的であり、開催国の変更も検討されたという。フランスは16世紀初めから南米に進出し、ポルトガルに続いてブラジルに入植したが、結局ハイチとフランス領ギアナなどを支配しただけで、南米諸国にはポルトガル、スペインの後塵を拝した。またイタリアやドイツのように南米に移民を送り込むということも少なかった。しかしながら、第2次世界大戦前からアルゼンチン人の選手がフランスリーグで活躍し、1978年当時もサンテエチエンヌにオズワルド・ピアッツアが所属し、母国開催のワールドカップに出場する予定だった。しかし彼はブエノスアイレスで代表チームに合流した矢先に家族が交通事故に遭遇し、フランスに戻ってしまい、アルゼンチン代表から離脱する。1986年のワールドカップで活躍したホルヘ・ブルチャガはその後ナントに移籍し、1990年大会で活躍したガブリエル・カルデロンは当時パリサンジェルマンに所属していた。
23年ぶりにアルゼンチンが色づけた、フランスのブルー
ところで3度目の本大会出場で初めての準決勝進出を狙うフランスにとって地元アルゼンチンの壁は高かった。開始早々の4分にザビエル・サビオラに先制を許す。フランスも前半終了間際にニコラ・ファビアーノのFKにメグゼがボレーであわせて同点に追いつく。しかし、アルゼンチンは前半のロスタイムも攻勢にでる。フランスの主将であるGKのプヌトーの反則を誘い、23年前同様にロスタイムにPKを得る。サビオラが決めて前半を終了。後半もサビオラが3点目を決めて3-1と完勝し、4回目の王座に近づいた。フランスは今回もベスト8止まりとなった。
今回の対戦は軍事政権下のワールドカップと異なり、攻撃サッカーに徹したアルゼンチンの見事な勝利であり、素直にたたえなくてはならない。そして23年と言う年月を越えたほほえましいエピソードを紹介しなくてはならない。
それは23年前の1次リーグ最終戦のマル・デル・プラタでのハンガリー戦の試合開始直前に起こった。両チームが2敗を喫し、消化試合となったこの試合、フランスは間違って白いユニフォームを持ってきてしまう。両チームが同色となり、試合の開始が危ぶまれたが、そこで手助けをしたのが地元のキンバリーというクラブのパチョ・キューベロ会長であった。自らのクラブの緑と白のユニフォームをフランス代表に貸し、フランスはワールドカップにおいて70年代唯一の勝ち星をあげるのである。キューベロ氏は現在も会長を続け、イラン戦の前日にはフランスチームを訪れ、今度は正式のブルーのユニフォームを提供したという。このような長い年月を越えたエピソードを生み出す土壌がアルゼンチンサッカーの本当の強さなのかもしれない。(了)